2008年12月14日日曜日

カルロス・フエンテス

■メキシコの著名な作家であるカルロス・フエンテスは、この十一日、八十歳の誕生日を迎えた。精悍な顔つきはあまり年齢を感じさせず、創作欲もなお旺盛だ。このほど五百ページ余りの大作「意志と富」を上梓した。

八十歳というのは、やはり特別な節目だろう。ニュースになり、世界中でイベントが企画される。メキシコでは、ノーベル賞作家ガルシア=マルケスが馳せ参じ、メキシコ国立自治大学では、研究者たちがフエンテスの文学について論じ合うことになっている。

折しも今年(2008年)は、フエンテスの出世作「大気澄みわたる土地」が世に出てから五十年目にあたる。それを記念して主人公の銅像がメキシコ市の一角に建つことになった。フエンテスの作品群にとっても、今年は特別な年なのである。

ところで、新作「意志と富」は、ある意味では「大気澄みわたる土地」の続編だと言える。なにしろ五十年後のメキシコがそこに描きだされるのだから。

「一九四〇年代の後半には、場末のキャバレーを夜中の二時に出ても、歩いて家に帰ることができた。いまでは、家からすぐ目と鼻の先の角でも、とても歩いていこうなんて思わないよ」とフエンテスは最近のインタビューで述べている。

「意志と富」では、夜の砂浜に転がる若者の頭部が語り手だ。「ぼくはメキシコで今年刎(は)ねられた一千番目の首だ。今週の五十番目、きょうの七番目の首だ」。

麻薬マフィアとの戦いは熾烈をきわめているようだ。今年だけでも死者はすでに四千人を超えた。このまま滅びるか、なんとか生き返るか、いまこの国はその瀬戸際に立っている、とフエンテスは言う。

八十歳の今も午前中は執筆に没頭する。「けっこう勤勉な性分でね。朝の八時から十二時まで机に向かうよ。この商売は、休むと書けなくなるもんでね」
「北海道新聞」2008-12-2

2008年11月24日月曜日

ラス・カサス

■ラス・カサスは16世紀に活躍したスペインのカトリック司祭である。ラテンアメリカの先住民(インディオ)に対する残虐非道なふるまいを激しく非難し、スペイン支配の不当性を訴えつづけた。中南米ではインディオの擁護者として称えられてきた。

この本では著者はそうしたラス・カサスの足跡を追う。生まれ故郷のセビージャや十七歳の時に大西洋を渡って最初に訪れたカリブ海のサント・ドミンゴ、従軍司祭として征服行に加わったキューバ、あるいは平和的な植民改宗事業を企てたクマナ(ベネズエラ)、ひと月だけ訪れたパナマ、たどり着けなかったペルー、司教として赴任したチアパス(メキシコ)などなどだ。

それらの現場に、当時であれ五百年後の今であれ実際に立つことで初めてわかることがいくつもあるようだ。じつはラス・カサスの研究は、日本でも大いに進められてきた。評伝はあるし、代表作の『インディアスの破壊についての簡潔な報告』や『インディアス史』なども日本語で読むことができる。だが、「その足跡をくまなく脚で歩いて検証した形跡はあまり見受けられない」のは確かだ。「ラス・カサスの晩年の言動に対する細心の検証作業はあっても、臨終のベッドが置かれた修道院へ赴くという「手間」は省かれているのではないか…」という著者の指摘はうなずける。

とはいえ、この本でとりわけ驚かされるのは、そこかしこで発揮される著者の旺盛は批評精神だろう。訪れる先々で過去や現在、歴史や政治、さまざまな社会問題や事件が縦横に語られ、独自の批評が加えられる。キューバではチェ・ゲバラとラス・カサスが対比され、パナマではガルシア・マルケスや松尾芭蕉、あるいは海賊ドレークや征服者ピサロが想起される。過剰なまでに繁茂する思考は、ラス・カサスの言説と同様に挑発的である。

2008年9月18日木曜日

スペイン語とカタラン語

■この夏、三年ぶりにバルセロナを訪れたが、カタラン語(カタルニア語)の存在が圧倒的なものになっているのに驚いた。店の看板や道路の標識にいたるまですっかりカタラン語に統一されていた。カタラン語こそカタルニア自治州の言語であるというメッセージがひしひしと伝わってくる。

バスク語など独自の言語を公用語にしている自治州がほかにもある。とはいえ、これまで急進的な言語政策をとってきたのはカタルニア自治州で、近年は学校の授業ももっぱらカタラン語でおこなわれるほどである。

そうした政策に異を唱えるスペイン人はむろん少なくない。バルセロナで暮らすことになった者にとって、子供の教育が悩みの種であるとよく聞く。またスペイン人でありながら、スペイン語をろくすっぽ話せない若い世代が出てきたと嘆く人びともいる。

その傾向がさらにエスカレートし、他の自治州にも広がることを懸念した哲学者のフェルナンド・サバテールは、この夏、「共通語を守るための陳情書」を認(したた)め国会に提出した。そこでは、確かにカタラン語もバスク語もガリシア語も等しくスペインの公用語であるが、スペイン国民唯一の共通語はスペイン語(カスティリア語)であり、スペイン語話者の権利は、スペイン国内のいかなる地域においても侵されてはならないと述べ、そのことを憲法や法律で明確にするように求めている。

この陳情書にはペルーの著名な作家バルガス=リョサも署名している。そして署名を求められたけれど断ったと新聞のコラムで告白したのはスペインの人気作家ローサ・モンテーロ。四億人もの話者がいるスペイン語は少しも危機に瀕していないし、その巨大な存在に呑み込まれないための奮闘はわからぬわけでもない、というのは彼女の言い分。陳情書をめぐる熱い攻防は秋になっても続きそうだ。

2008年7月17日木曜日

アルモドバル

■スペインの映画監督ペドロ・アルモドバルはこのほど本格的なブログを始めた。二週間に一回ぐらいのペースで更新されている。一回ごとの分量はかなりのもので、小見出しがいくつも並び、さまざまなテーマでエッセイ風に書きつづっている。写真も随所に折り込まれ、ビジュアル的にも楽しい。

アルモドバルは、「オール・アバウト・マイ・マザー」「トーク・トゥ・ハー」や「ボルベール(帰郷)」などの作品で多くの世界的な賞に輝き、自ら手がけた脚本でもフランスやアメリカで話題をさらってきた。文章をつづることにかけては、若い頃の小説『パティ・ディプーサ』以来、独特の才能を発揮してきたアルモドバルである。今回のブログでも、その文章の軽快なリズムとみずみずしい感覚は申し分なく健在である。

ところで三月に開始されたブログの冒頭には、次回作の脚本の草稿が昨年の十月にできあがり、目下六回目の手直しにかかっている、とある。そしてメキシコやモロッコへ出かけた折りの、ホテルのテラスとおぼしき場所で、頬杖をついて原稿に手を入れているアルモドバルのスナップ写真が添えられている。

また旅先でさまざまな小物を買い集めるのが趣味、と語ったエッセイでは、だいぶ以前、カリブの島で見つけた、目の形をした風変わりな装身具が、今回の映画で使えるかもしれないとふと思い、それをイヤリングに作りかえて、ペネロペ・クルスにつけてみたら、その魔よけ的な霊力が俄然【がぜん】伝わってきたという。

「ボルベール」に続いてペネロペ・クルスが主演を演じる新作映画で、アルモドバルは彼女のなかに棲むさまざまな女性をまたひとり見つけ出すつもりだと意気込んでいる。最新のブログでは、たしかに大きく変貌を遂げた銀髪のペネロペの写真が写し出されていた。

撮影会開始は間近いようで、このブログはその間もずっと続く見込みだ。ブログはスペイン語のほかに、英語やフランス語のバージョンも同時にアップされている。

2008年4月14日月曜日

楽園への道

■この小説はバルガス=リョサの比較的新しい作品である。七〇歳を越えた今もリョサは、二,三年おきに新作を発表しており、創作意欲には少しも翳りがみられない。『楽園への道』は二〇〇三年にスペインで刊行され、好評を博した。

主人公は十九世紀の前半に、フランスで労働者や女性たちの権利確立のために奮闘した社会運動家フローラ・トリスタンと、その孫にあたる後期印象派の画家ポール・ゴーギャンである。ふたりの生涯は、二十二章に渡って交互に語られ、五百ページ近い作品となっている。

ところでフローラもゴーギャンも、リョサの出身国ペルーと浅からぬ縁がある。フローラは三十代のはじめにこの国を訪れ、代表作『ペルー旅行記――ある女パリアの遍歴』(法政大学出版局)を書いた。一方ゴーギャンは、あまり知られていないことだが、幼年時代の数年間をこのアンデスの国で過ごしているのである。

ペルーから帰国して、やがて「人間に奉仕すること」をめざすようになるフローラだが、リョサはとりわけその生涯の最後の八ヶ月に焦点を当てる(一八四四年のことで、彼女は四十一歳になっている)。冒頭のエピソードでは、朝早く起き出して、セーヌ河畔の船着き場から、靴職人の小さな集会へ向かうフローラの姿が描きだされる。

十数時間かけてたどり着いたまちでは、組合を組織して団結するよう男たちに熱っぽく訴える。むろん女性がそうした主張を説いて回るのを奇異な目で見られていた時代だ。しかし彼女はひるむどころか、教会の司祭とも渡り合う。――「女たちがどんなに両親や夫や子供たちから虐げられ、不当に扱われ、搾取されているか、気づいていないのだろうか」

フローラ・トリスタンは、労働運動やフェミニズムの先駆者として近年再評価の著しい女性である。彼女をそうした社会運動へ駆り立てたものは何だったのか、不遇な少女時代や波乱に満ちた結婚生活とともに描きだされていくのである。

いっぽうゴーギャンについては、タヒチに渡ってから、ヒヴァ・オア島で亡くなるまでの十二年間の物語が主軸となる。ヨーロッパ文明を捨て、南太平洋の熱い島にたどり着くのは一八四一年、四十三歳のときだ。「百ヤードのキャンヴァス布」を携えていた。

タヒチまでやってこなければならなかった理由についてゴーギャンは言う。――「本物の絵を描くには文明化された我々を払い落として、内部にある野蛮人を引き出さねばならない」。それができた最初の傑作は「マナオ・トゥパパウ」(彼女は死者の霊について考えている、もしくは、死者の霊は彼女を思い出している)という作品だ。リョサは巧みなストーリーテリングでそのみごとな絵の達成を実感させてくれる。

『楽園への道』の最終章ではゴーギャンは、もはやほとんど目が見えない状態で、脚が腐乱し、自ら痛み止めのモルヒネを打っている。そして夢うつつのなかで日本に思いを馳せる。――「あの国へ楽園を探しに行くべきだったのだよ」

先にも書いたように、フローラとゴーギャンの物語は交互に語られる。ふたりは祖母と孫の間柄だが、ゴーギャンはフローラの死後に生まれた。当然のことながらふたりは物語のなかでも会うことがない。時代も舞台も登場人物も異なる別々の物語である。

とはいえ、両者のあいだを目に見えない電流のようなものがしきりに飛び交う。フローラもゴーギャンもそれぞれの領分で大胆な企てに挑み、ひたすら見果てぬ夢をめざした。その夢は楽園と言いかえてもよい。一途な情熱の、栄光とその代償の物語である。

2008年3月16日日曜日

Mario Bellatin

「ムラカミ夫人の庭園」や「ナガオカ・シキ――鼻のフィクション」といったタイトルの小説を発表して、スペイン語圏の国々で人気を博している作家がいる。メキシコのマリオ・ベジャティン(1960~ )である。ペルーで育ち、この国で小説を書きはじめたので、ペルーの作家と紹介されることもある。二つの国籍を持っており、現在はメキシコで暮らしている。痩身で、頭は剃髪しており、少々異様な風貌の持ち主である。

同様に、彼の書く小説の外観にしても、登場する人物たちにしても、一風変わっているのである。たとえば「ナガオカ・シキ」の主人公(名前は正岡子規を連想させるが無関係)は、とてつもなく大きな鼻をもって生まれ、若くして仏門に入るが、信仰心の欠如でやがて追放されてしまい、田舎で小さな写真店を営みながら、写真と文学の相関関係についての本を著すと、これがラテンアメリカの作家たちにも大きな影響を与えることになる。谷崎潤一郎と親交があり、芥川龍之介の短編「鼻」のモデルとも目されている、というのである。

小説の巻末には芥川の「鼻」のスペイン語訳が付され、谷崎が撮ったとされる古めかしい写真も、他の多くの昭和か戦前の写真とともに、小説の中ほどに折り込まれている。

「ラテンアメリカという土地柄や、ある特定の時代に縛られたくないんだ。小説というジャンルや、これまでの饒舌なスペイン語の文体からも逃れたいんだ」とベジャティンは言う。その文体はたしかにシンプルで透明感に満ちている。「子供や普通の大人たちに終わりまで読んでもらいたいからね」と述べる。しかし平易な文章でありながら、言葉のひとつひとつが研ぎ澄まされ、すこぶる純度が高いのである。

ベジャティンの作品は、近年さまざまな外国語に訳されはじめている。ときおり読者から「ナガオカ・シキ」という日本の作家についての問い合わせがあるそうだ。しかしすべては、ある会合で好きな作家について話さなければならなかったときに生まれたフィクションなのである。