2013年2月26日火曜日

『ブラス・クーバスの死後の回想』


■ラテンアメリカ文学が誇る傑作のひとつである。書かれたのは1881年だから、もう百数十年も前の小説だが、古びていないどころか、いまなお新しい感じさえするのが驚きである。

著者のマシャード・ジ・アシス(1839-1908)は、黒人の血を引くムラート(混血)で多くの優れた作品を生み出し、ブラジル文学の礎を築いた作家である。

『ブラス・クーバスの死後の回想』の語り手は、小説の冒頭ではすでに息をひきとり、「死者」として、長短合わせて百六十の断章でわが生涯や交流のあった女性たちのことを語っていく。

その語り口は軽妙で、ユーモアと皮肉にいろどられ、潔さと哀しみが混ざりあって読み手を飽きさせない。飽きさせないどころか、ときには読者の常識や固定観念を挑発し、叱咤する――「この回想録がなかなか本題に入らないと言って、そんなところで顔をしかめていないで(…)。どうやら貴君も、ほかの読者や貴君の同士と同じく、考察よりも逸話のほうをお好みのようだが(…)」。

また恋人だった女性たちが、長い歳月のうちに変貌していく様子や、語り手自身の内面世界の変転を、いくつかの断章を組み合わせて、じつにリアルに、だが淡々と描きだしてみせる。

そうしたページを繰るにしたがって、ブラス・クーバスの過去そのものが少しずつ変容していくのがわかる。過去は思い出されるたびに更新されていく。そしてそのエピソードが愉快なものであれ、悲痛なものであれ、そこはかとない哀しみをたたえる。ブラス・クーバスの言葉でいえば「「人生の各局面が一つの版で、それはその前の版を改訂する。そして、それもいずれは修正され、ついに最終版ができあがる…」その最終版がとりもなおさずこの回想録である。

「北海道新聞」
2012.7.29

2013年2月17日日曜日

Travesuras de una niña mala/悪い娘の悪戯

■ペルーのノーベル賞作家バルガス=リョサが2006年に刊行した一風変わったラブストーリーである。悪女めいた美貌のニーニャ・マラと人の好い凡庸なニーニョ・ブエノの四十年に及ぶ奇妙な関係を60年代のパリ、70年代のロンドン、80年代のマドリードを舞台に濃密にかつ愉快に描きだす。

 物語の冒頭であやしげな素性の少女ニーニャ・マラは、つぎつぎと男たちを手玉にとって社会的にのしあがっていく。パリで再会したニーニョ・ブエノとベッドを共にしながらも「私が一生一緒にいたいのは、金も権力も途方もないほど手にした男だけ。残念ながらあなたは絶対、候補になりようがないわ」と言ってのける。そしてすでに元外交官夫人になっていた彼女は、数年後にはイギリスの大富豪の奥方におさまるのである。

 しかし日本でヤクザの世話になると歯車が狂いはじめる。東京で再会したニーニョ・ブエノに「誓って言うけど愛じゃない。よくわからないけど愛じゃないの。一種の悪癖、病気と言ったほうが近いかもしれない。私にとってフクダはそんな存在なの」と告白する。

 ニーニャ・マラと日本のギャングの関係を、ペルーという国とアルベルト・フジモリ元大統領の関係に重ね合わせて読むと、リョサ自身の秘かな企(たくら)み、あるいは悪戯(いたずら)がほの見えてくる。リョサはかつて、作家はストリッパーとは逆だ。裸を隠すために服を着込むんだ、と述べたことがあるが、フジモリへの思いを潜めたこのエピソードはまさしくその典型だろう。

 日本で身も心もぼろぼろにされたニーニャ・マラはやがてパリに逃げ帰る。ニーニョ・ブエノはしだいに老いながらも彼女に翻弄されつづけることになる。はたしてふたりのあいだに愛が成立するのか。リョサの腕の見せどころだろう。インタビューで「真の愛の物語を追求したつもりだ」と述べているが、確かに目頭が熱くなる結末だ。