
『親愛なる家族へ』と題されたこの書簡集には、文字通り家族(父親、母親そして弟)に宛てた四百通を越える手紙が収録されている。先に出た第一巻では、一九五六年から一九六二年までの百七十二通が収められ、「ヨーロッパからの手紙」という副題がつけられている。映画監督をめざしてローマの映画実験センターへ旅立った二十代後半の若きプイグの日々がそこにある。そして第二巻の「アメリカ大陸からの手紙――ニューヨーク、リオ」では、晩年近くまでの、その後の二十年間の二百三十五通が収録されている。こちらの二十年のあいだに、プイグは映画から脚本へ、そして小説というジャンルに行き着き、会話やモノローグを主体にした独特な作風を見出すことになるである。
「アルゼンチン人の嫉妬深さのせいか、邪悪さのせいか知らないけれど、ぼくは完璧に無視され、だれも作品を取りあげてくれない」とプイグは一九六六年四月の手紙で家族に嘆く。ニューヨーク、メキシコ市、リオデジャネイロとずっと異国で暮らさなければならなかったのは、母国での迫害からのがれるためだったといわれている。だが、時代は移り変わり、事態は一変した。「若い世代となら理解しあえると思うんだ」とも書いたが、この予言は当たったようだ。
「北海道新聞」2007-2-6