2007年3月4日日曜日

Manuel Puig

■アルゼンチンの作家マヌエル・プイグが来日したのは一九九〇年で、その年に突如として亡くなったのだから、もうかれこれ十五年以上が過ぎたことになる。来日した折りには長編小説『蜘蛛女のキス』や『赤い唇』などですでに世界的な作家になっていたが、死後もその評価は高まるばかりである。とりわけ母国アルゼンチンでの再評価がいちじるしい。かつては、その斬新さが通俗的だと見下され、ホモセクシュアルだったこともたたって、冷遇された時期が長くつづいたからだ。いまでは、ボルヘスの呪縛からアルゼンチン文学を解き放ったとさえ讃えられる。そしてその延長線上にこのほど、ブエノスアイレスの出版社から書簡集二巻本が刊行されたのである。

『親愛なる家族へ』と題されたこの書簡集には、文字通り家族(父親、母親そして弟)に宛てた四百通を越える手紙が収録されている。先に出た第一巻では、一九五六年から一九六二年までの百七十二通が収められ、「ヨーロッパからの手紙」という副題がつけられている。映画監督をめざしてローマの映画実験センターへ旅立った二十代後半の若きプイグの日々がそこにある。そして第二巻の「アメリカ大陸からの手紙――ニューヨーク、リオ」では、晩年近くまでの、その後の二十年間の二百三十五通が収録されている。こちらの二十年のあいだに、プイグは映画から脚本へ、そして小説というジャンルに行き着き、会話やモノローグを主体にした独特な作風を見出すことになるである。

「アルゼンチン人の嫉妬深さのせいか、邪悪さのせいか知らないけれど、ぼくは完璧に無視され、だれも作品を取りあげてくれない」とプイグは一九六六年四月の手紙で家族に嘆く。ニューヨーク、メキシコ市、リオデジャネイロとずっと異国で暮らさなければならなかったのは、母国での迫害からのがれるためだったといわれている。だが、時代は移り変わり、事態は一変した。「若い世代となら理解しあえると思うんだ」とも書いたが、この予言は当たったようだ。
「北海道新聞」2007-2-6