2019年2月27日水曜日

Roberto Bolaño /ロベルト・ボラーニョ●『2666』

■ロベルト・ボラーニョは南米チリの作家である。惜しまれて二〇〇三年に五〇歳の若さで亡くなった。『野生の探偵たち』が英訳されて以来、スペイン語圏だけでなく英語圏でも爆発的な人気を博している。遺作となったこの『2666』は、アメリカで二〇〇八年に全米批評家協会賞を受賞した。

 上下二段組で九百ページ近くもある分厚い作品である。生前ボラーニョは残される子供たちの将来を考えて五冊に分け、毎年一冊ずつ刊行することを考えていたようだ。しかしそれぞれに独立性があるとはいえ、やはり五つの物語の総体にこそ、新しく切り開かれた総合小説の妙味が潜んでいると言わねばならないだろう。

 物語の冒頭はこの一文である。――「ジャン=クロード・ペルチェが初めてベンノ・フォン・アルチンボルディを読んだのは、一九八〇年のクリスマスのことだった。当時、彼は十九歳で、パリの大学でドイツ文学を学んでいた。」第一部では男三人と女一人の「批評家たち」が主人公となって、全くの無名から世界的な小説家へと急上昇していく謎の作家アルチンボルディの居所を突きとめるための旅が、しなやかで軽快な口調でつづれれる。さらに舞台はヨーロッパの都市からやがてアメリカとメキシコの国境の町へと移っていき、第二部ではその町に流れ着いた風変わりな大学教授、第三部では取材にやってきたアフリカ系アメリカ人記者が主役を演じる。そして第四部では際限なく繰りひろげられる女性連続殺人事件、第五部ではこの町のどこかに潜んでいる謎の作家アルチンボルディの数奇な生涯が語られる。

 それらの物語のなかに無数の小さな物語が散りばめられ、互いに連関しあいながら、夜空に浮かぶ無数の星がひとつのコンステレーション(星座)を作るかのようである。ボラーニョは短編作家ボルヘスを繰り返し読んできたと言う。ボルヘスは壮大な宇宙の神秘を玉虫色の小球体に閉じ込めたが、ボラーニョはその小球体のなかの膨張する宇宙を描くかのようだ。

2013年3月6日水曜日

Julio Llamazares/フリオ・リャマサーレス


スペインの作家フリオ・リャマサーレス(1955~)が30代の終わりに書いた作品である。「黄色い雨」「狼たちの月」につづく三冊目の邦訳となる。郷愁と悲哀が漂い、透明感のある時間が描き出される。

タイトルから無声映画を扱った本かと思ってしまうが、むかしの写真をめぐる話である。語り手の母親がのこしてくれた古い写真を眺めながら、スペイン北部の小さな炭鉱の町で過ごした少年の日々を追想する。

日本語版への序では、「実をいうとこの作品は紛れもなくフィクションとしての小説なのである」とわざわざ断っている。けれど、やはり少年時代の体験をエッセイ風に書いていると思いながら読むのが、この「小説」の正しい読み方であろう。

写真のほとんどが褪せた白黒写真である。子供の頃の仲間や祖父の古いラジオ、サーカスや祭りの一場面、あるいは父や母……。写真によって記憶が呼び覚まされ、28編の物語が丹念に紡ぎだされる。

登場する人物たちの多くは、もうこの世にいない。砂屋の息子は「父親のトラックに乗って」事故にあう。オートバイを乗り回していた伊達男タンゴは、木に激突してその血で雪を赤く染める。椅子に座った「ぼく」を顎の上でぐるぐる回してくれたサーカスの「アザラシ男」は「カシの木の枝にロープをかけて」首をくくる。

とはいえ彼らは、写真のなかで永遠に生き続けているかのようだ。古いラジオと一緒に写った両親も、こちらに顔を向けたまま「今も永遠をじっと見つめて座り続けている」のである。

作品の終わりの方で語り手が、メキシコの作家ルルフォは、「写真が死と深く結びついていることを知っていた」と述べるくだりがある。リャマサーレスは、時間が止まり、永遠に静止したその写真が、ときには「命にあふれている」ことも知っている。
「北海道新聞」
2012.10.28

2013年2月26日火曜日

『ブラス・クーバスの死後の回想』


■ラテンアメリカ文学が誇る傑作のひとつである。書かれたのは1881年だから、もう百数十年も前の小説だが、古びていないどころか、いまなお新しい感じさえするのが驚きである。

著者のマシャード・ジ・アシス(1839-1908)は、黒人の血を引くムラート(混血)で多くの優れた作品を生み出し、ブラジル文学の礎を築いた作家である。

『ブラス・クーバスの死後の回想』の語り手は、小説の冒頭ではすでに息をひきとり、「死者」として、長短合わせて百六十の断章でわが生涯や交流のあった女性たちのことを語っていく。

その語り口は軽妙で、ユーモアと皮肉にいろどられ、潔さと哀しみが混ざりあって読み手を飽きさせない。飽きさせないどころか、ときには読者の常識や固定観念を挑発し、叱咤する――「この回想録がなかなか本題に入らないと言って、そんなところで顔をしかめていないで(…)。どうやら貴君も、ほかの読者や貴君の同士と同じく、考察よりも逸話のほうをお好みのようだが(…)」。

また恋人だった女性たちが、長い歳月のうちに変貌していく様子や、語り手自身の内面世界の変転を、いくつかの断章を組み合わせて、じつにリアルに、だが淡々と描きだしてみせる。

そうしたページを繰るにしたがって、ブラス・クーバスの過去そのものが少しずつ変容していくのがわかる。過去は思い出されるたびに更新されていく。そしてそのエピソードが愉快なものであれ、悲痛なものであれ、そこはかとない哀しみをたたえる。ブラス・クーバスの言葉でいえば「「人生の各局面が一つの版で、それはその前の版を改訂する。そして、それもいずれは修正され、ついに最終版ができあがる…」その最終版がとりもなおさずこの回想録である。

「北海道新聞」
2012.7.29

2013年2月17日日曜日

Travesuras de una niña mala/悪い娘の悪戯

■ペルーのノーベル賞作家バルガス=リョサが2006年に刊行した一風変わったラブストーリーである。悪女めいた美貌のニーニャ・マラと人の好い凡庸なニーニョ・ブエノの四十年に及ぶ奇妙な関係を60年代のパリ、70年代のロンドン、80年代のマドリードを舞台に濃密にかつ愉快に描きだす。

 物語の冒頭であやしげな素性の少女ニーニャ・マラは、つぎつぎと男たちを手玉にとって社会的にのしあがっていく。パリで再会したニーニョ・ブエノとベッドを共にしながらも「私が一生一緒にいたいのは、金も権力も途方もないほど手にした男だけ。残念ながらあなたは絶対、候補になりようがないわ」と言ってのける。そしてすでに元外交官夫人になっていた彼女は、数年後にはイギリスの大富豪の奥方におさまるのである。

 しかし日本でヤクザの世話になると歯車が狂いはじめる。東京で再会したニーニョ・ブエノに「誓って言うけど愛じゃない。よくわからないけど愛じゃないの。一種の悪癖、病気と言ったほうが近いかもしれない。私にとってフクダはそんな存在なの」と告白する。

 ニーニャ・マラと日本のギャングの関係を、ペルーという国とアルベルト・フジモリ元大統領の関係に重ね合わせて読むと、リョサ自身の秘かな企(たくら)み、あるいは悪戯(いたずら)がほの見えてくる。リョサはかつて、作家はストリッパーとは逆だ。裸を隠すために服を着込むんだ、と述べたことがあるが、フジモリへの思いを潜めたこのエピソードはまさしくその典型だろう。

 日本で身も心もぼろぼろにされたニーニャ・マラはやがてパリに逃げ帰る。ニーニョ・ブエノはしだいに老いながらも彼女に翻弄されつづけることになる。はたしてふたりのあいだに愛が成立するのか。リョサの腕の見せどころだろう。インタビューで「真の愛の物語を追求したつもりだ」と述べているが、確かに目頭が熱くなる結末だ。

2012年11月6日火曜日

現代ラテンアメリカ文学併走(安藤哲行著)




■ラテンアメリカ文学のここ数十年の歩みを知る上で絶好の書が登場した。バルガス=リョサが『都会と犬ども』を発表し、世界的なラテンアメリカ文学の《ブーム》が巻き起こってからそろそろ半世紀が過ぎようとしている。リョサは二〇一〇年にノーベル賞を受賞したが、ある意味ではひとつの時代の区切りをなすできごとだったとも言えよう。本書は、そうした輝かしい時代を視野におさめながら、ブームの時代が過ぎ去った今日のラテンアメリカ文学の状況を浮かび上がらせる。サブタイトルの「ブームからポストボラーニョまで」は、まさしくこの本が射程におさめるフィールドである。

 第1部の「ラテンアメリカ文学の過去・現在・未来」では、3つの評論が並び、メキシコとアルゼンチンの文学の現況を展望し、ラテンアメリカ文学の全体にも目配りする。メキシコにはルルフォやフエンテス、アルゼンチンにはボルヘスやコルタサルといった日本でもよく知られた作家たちがいるけれど、後続の世代にとって彼らの先に新たな文学の地平を切り開くことは、そう容易なことではなかったようだ。彼らの苦闘や善戦ぶりは第2部において詳しい。

 第2部のタイトルは、書名にも冠された「現代ラテンアメリカ文学併走」。分量的にも本書の中核をなしている。「ユリイカ」に十数年にわたって連載された文章が主で、ページを繰ると、大家と呼ばれるようになった馴染みの作家たち(ボルヘス、フエンテス、マルケス、ドノソ、コルタサル、サバト、プイグ、エチェニケ、アレナスなど)に代わって、新しい世代が一九九〇年代の終わり頃からしだいに勢いづいていくのがわかる。アルゼンチンのアイラ、メキシコのボルピやパディージャ、チリのボラーニョ、コロンビアのボテロやバジェホなどなど…。こうして名前を並べただけでは、何の興も湧かないが、著者の文章を読むと、ひとりひとりが非常に魅力的な書き手であることや、ラテンアメリカ文学にも新しい時代が到来していることが実によく伝わってくるのだ。

 それぞれの作品のあらすじが巧みにたどられ、注目すべき点や、どこに新しさが潜んでいるのかが屈託のない自在な語り口で語られている。また原書からの引用も随所に織り込まれ、ストーリーだけでなく、それぞれの作家の文体の質感や味わいも伝わってきて、ときにはすぐにもその作品を丸ごと読みたくなってしまう。現に私も何冊かさっそく注文してしまったほどだ。これらのラテンアメリカ文学を紹介する文章は、無味乾燥な情報の羅列ではなく、読む者を楽しませ、揺り動かすパワーを秘めているのだ。

 第3部は「ラテンアメリカ文学のさまざまな貌(かお)」で、ここではふたつのテーマがじっくり掘り下げられる。ブーム時代の代表作のひとつ、ムヒカ=ライネスの長編『ボマルツォ』と、カトリックとマチスモの頑強な社会で、いまなお人々の顰蹙(ひんしゅく)を買うゲイの問題だ。ゲイをあつかった小説がつぎつぎと書かれ、ラテンアメリカでも年ごとにその系譜が豊かなものになっている。そうしてこれらの評論でも、物語のてんまつを面白く語る力が発揮され、読者を飽きさせない。ある意味ではこの本のすべてのページがその巧みな語りの力に支えられており、それがこの本を単なるラテンアメリカ文学の案内書以上のものにしているのでる。
「週間読書人」2012-01-13

2012年9月23日日曜日

マトゥーテ/Ana María Matute

■セルバンテス賞はスペイン語圏で最高の文学賞であるが、今年はスペインの女性作家アナ・マリア・マトゥーテが受賞した。日本ではほとんど翻訳紹介されていない作家だが、語学テキストでよくその作品を見かける。透明感のある平易な文体でつづられた、一群の少年たちが登場するどこか幻想的で悲哀を含んだ短編に定評がある。その端正な文章を読んでスペイン語を学んだ学生は少なくないはずである。


 今回の受賞に合わせるかのように、それらの短編はつい先だって『月の扉――全短編』というタイトルのもとに一冊の分厚い本に編まれた。八百ページを優に超える。その折りのインタビューでマトゥーテは、「最初の短編から現在にいたるまで、私は人びとの失意と喪失感というものを描いてきました」と述べている。

 もっともマトゥーテは、短編だけでなく、いくつかの重要な長編も発表しており、大家族の兄弟たちの葛藤と離散を描いたデビュー作『アベル家の人々』(1948)や、内戦後の傷ついたスペインを浮かび上がらせた代表作『死んだ子供たち』(1958)、あるいは長い沈黙のあとに上梓した架空の王国の物語『忘れられた王グドゥ』(1996)などの作品は、内外で高い評価を得て、ナダル文学賞、プラネタ賞、国民文学賞、批評家賞など、スペインの名だたる文学賞をつぎつぎと獲得してきた。

 あとはセルバンテス賞だけと言われつづけ、本人もそれを気にしていたようで、発表前のインタビューでは「受賞できたらうれしさのあまりそこらじゅうを飛び跳ねるわ。もちろん心の中でね。この松葉杖じゃむりですもの」と冗談まじりに語っていた。マトゥーテはバルセロナ生まれで八十五歳。朝はゆっくり起きて、3時か4時の遅い昼食まで書きつづけているという。「人生は不思議なもの。物語を書くこともそれに似てどこか神秘的な営みだわ」と受賞後に述べていた。
「北海道新聞」2010-12-14

バルガス=リョサ /Mario Vargas Llosa

■バルガス=リョサは目下プリンストン大学の客員教授としてニューヨークに滞在中である。ノーベル賞受賞を知らせる電話は、まだ夜が明け切らぬうちにかかってきたようだが、リョサはすでに起床し、いつものように仕事にとりかかっていたという。途方もなく勤勉な作家だが、若い頃に心酔したフロベールの日記を読んで身につけた生き方だと言う。

 リョサは一九六〇年代の前半に『都会と犬ども』で華々しく登場し、『緑の家』『ラ・カテドラルでの対話』などの斬新な野心作をつぎつぎに発表して、『百年の孤独』のガルシア=マルケスらとともにラテンアメリカ文学の世界的なブームを巻き起こした。その旺盛な創作欲は七十四歳の現在も少しも衰えをみせない。先だってウルグアイの巨匠オネッティの作家論『フィクションへの旅』を上梓したが、来月早々に、コンゴに足を運んで取材した次の長編『ケルト人の夢』を刊行の予定である。

 一九八二年にガルシア=マルケスがノーベル賞を受賞すると、つぎはむろんバルガス=リョサだとずっと期待されてきたが、ようやく二十八年後に両雄が肩を並べることになった。ペルーのアラン・ガルシア大統領は受賞の一報に、われわれは青春時代からこの日がくるのをずっと待ち望んできた、と述べたが、これはリョサの愛読者の偽らざる心境だろう。

バルガス=リョサの初来日はいまから三十年ほど前、すでに世界的な作家として知られ、国際ペンクラブ会長の要職にあった。作家の大江健三郎や文化人類学者の山口昌男と対談し、学生だった筆者は四苦八苦しながらその通訳をつとめた。リョサは料亭の掘り炬燵に腰かけ、終始にこやかだったが、ストイックな厳格さ、知性への圧倒的な信頼、相手を容易に懐に寄せつけない雰囲気を漂わせていた。

二度目は、アルベルト・フジモリと大統領選を戦っていたさなかで、翻訳した『都会と犬ども』を見せると、ぱらぱらとめくって「さっぱりわからないけれど大したものだ」といって肩を叩いてくれた。しかし、自由と民主主義の旗を高く掲げ、優位に立っていたリョサは、その後みるみるうちに庶民的なイメージのフジモリに差を詰められ、やがて追い抜かれた。選挙のあとパリに飛んで、カフェの前でしょんぼりと佇んでいたリョサの写真が忘れがたい。

とはいえ大統領選に破れたおかげで作家としてのリョサは、復活を遂げ、ドミニカ共和国の独裁者トルヒーヨの晩年を描いた『山羊の宴』や画家ポール・ゴーギャンとその祖母の見果てぬ夢を追った『楽園への道』など、近年の数々の傑作が生み出されたのである。

その延長線での今回のノーベル賞だが、授賞理由は「権力の構造の見取り図を描き、個人の抵抗、反乱、敗北の姿を鋭く表現した」とある。デビュー作『都会と犬ども』で言えば、ペルーの縮図、あるいはラテンアメリカや世界の縮図としての士官学校を舞台に、暴力と狡猾さ、腕力とずるさがものをいう世界を現出させ、そこで詩人、ボア、ジャガー、あるいは奴隷とあだ名される一群の若者たちの「抵抗、反乱、敗北」のドラマをあざやかに描きだしてみせたのである。

四年前のインタビューでバルガス=リョサは、「ふと沈黙する作家がいるけれど、私は死ぬまで沈黙するつもりはない。座って銅像になってしまう人もいるけれど、私は最後まで走り続けるつもりだ」と語っている。その旺盛な創作意欲は受賞後も衰えることがあるまい。
「毎日新聞」2010-10-12

2010年11月28日日曜日

■Juan Rulfo

メキシコの作家フアン・ルルフォの写真展が、メキシコ市の鉄道ミュージアムで開催されている。一九五〇年代の半ばに撮影された62枚の写真が展示されており、ターミナル駅がまだ鄙びた都市の一画だったころの様子を写しだしている。煤けた家並みや、黒い煙をあげながら視界の奥に現れた蒸気機関車、あるいは緩やかにカーブを描きながらどこかへ消えていく無数の線路、どの一枚も美しく、そしてどこかもの悲しげだ。 写真家としてのルルフォに注目が集まるようになったのはここ十年ほどのことである。むろん彼の名声は、生前に発表した2つの文学作品、短編集『燃える平原』と長編『ペドロ・パラモ』によるものだが、ここにきてメキシコ国内で写真集が刊行され、今回のような写真展もあいついで開催されている。昨年はメキシコ南部の古い都市オアハカで写真展が催され、ルルフォが一九五〇年代の後半にここを訪れた折りの70枚の写真が展示された。先住民の暮らしやさまざまな建築物に注がれる独特な視線や確かな構図が評判を呼んだ。 そうした写真家としてのルルフォの研究は、まだはじまったばかりだが、1930年代の終わりに最初のカメラを手にし、3000枚を超える「作品」を残していることがわかっている。そしてどうやら短編を書き出したのとほぼ同じ時期に、何枚かの写真を雑誌に投稿していたようだ。 そういえば邦訳『ペドロ・パラモ』(岩波文庫)の表紙に使われている写真も、ルルフォ自身の手になるものだ。馬にまたがった男たちが、草の斜面に不意に現れた瞬間を捉えている。高く伸びた穂が揺れ、顔の見えない男たちはささ体を前傾してどこかへ急いでいる風だ。画面の半分以上を占める空も、重なりあう雲におおわれ、先行きの不穏な事態を予想させる。緊張感と不安をはらんだ画面は、やはりどこかルルフォの小説世界と響き合う…。

2010年8月4日水曜日

■ガボとフィデル――権力と絆

■原題は『ガボとフィデル――ある友情の風景』である。ガボは『百年の孤独』や『族長の秋』などで知られるコロンビアのノーベル賞作家ガルシア=マルケスの愛称。フィデルは、キューバの最高権力者として君臨してきた革命家フィデル・カストロ。二人が長年親交を結んできたことは広く知られており、軍服姿の大柄なフィデルと、小柄だががっしりした体つきのマルケスが並んで写っている写真は、これまで幾度も世界中の新聞や雑誌に掲載されてきた。

本書はその篤い友情の本質に迫ろうと、二人のさまざまな発言やインタビュー記事を引用しながら、一九七〇年代の半ばにはじまる親交の跡をたどる。またマルケスの周辺の人びとや、友人たちにも精力的に取材し、マルケスと権力者たちが強力に引き合う不思議さを解明しようとも試みる。「ラテンアメリカの大統領はみんなあいつの友だちになりたがっている。けれどあいつもまた大統領たちの友だちになりたいと思っているのさ」とマルケスの友人の一人が語る。

いずれにせよ、フィデルとマルケスの友情がつづいたこの三十年あまりは、キューバにとって波乱の時代であった。自由や人権をめぐるさまざまな問題が生じ、そのつど多くの知識人や文化人がそれぞれの立場を表明しながら、あるときはカストロ政権を擁護し、多くの場合は激しく非難してきた。本書ではそれらの「事件」を振り返りながら、マルケスの言動が検証されるが、けっきょく沈黙を守ることの多かったマルケスは、バルガス=リョサから「カストロの太鼓持ち」と揶揄され、スーザン・ソンタグから「彼の偉大な作家としての義務は、論戦に加わることだと思います、彼が語らないのを、私は許すことができません」と糾弾されるのである。

こうして革命家と作家の一途な友情は、本書ではしだいにマルケスにとって分の悪い展開になっていくわけだが、「年老いた孤独なカリブの独裁者」への理解と憧れが本来的にマルケスにあったからこそ、『百年の孤独』や『族長の秋』のような奥深い傑作が書けたのだともふと気づかされるのである。
「神戸新聞」2010-06-27

2010年6月20日日曜日

LAURA RESTREPO

■「サヨナラ」というタイトルにはいささか警戒したが、幸いなことにこれは東洋的なエキゾチズムが売り物の小説ではないのだ。

冒頭近く、川沿いの田舎町に、まだあどけなさの残る少女が、古ぼけたスーツケースを手に現れ、客待ちの車引きに「この町で一番の店」に連れて行ってと頼む――
《「そこで誰が働いてるか、知ってんのか?」と彼は訊いた。「町の女だぞ」
「知ってるわよ、そんなこと」
「つまり、すっごく悪い商売だぞ。ほんとうに行きたいのか?」
「決まってるでしょ」少女はためらわずに言い切った。「あたし、娼婦になるんだもん」》

横長の美しい目をした混血の少女は、やがて娼婦としての第一歩を踏みだし、石油の採掘現場で働く男たちが押し寄せるラ・カトゥンガの女王となる。源氏名は、「サヨナラ」。魅力的な目、東洋的な面立ち、なめらかな肌。男たちは彼女の虜となる。

むろんこれだけの話なら、たとえ警察や資本家の横暴、労働者や娼婦の悲惨の歴史が描きだされても、ごく平凡な小説に終わっただろう。しかしこの小説は、女性記者である語り手の「私」が、車引きや老女将、売春婦たちから集めまわった数多くのエピソードから構成されている。そして断章と断章が相互に影響し合って、サヨナラの数奇な物語を編み上げていくわけだが、ときおり証言者たちの話は微妙に食い違うのだ。

「娼婦にとって、男に惚れちまうほど大きな不幸はないよ」と知りながらも、その運命をたどることになるサヨナラだが、その行く末についても、異なる証言が並び、さらには語り手である女性記者自身にもまた別の「確信」があるというのだ。そしておそらくこの作品を読む者にも。

著者のラウラ・レストレーポはジャーナリスト出身の作家。スペイン語圏の国々で高い人気を誇っている。
「北海道新聞」2010-04-11


 

2010年4月18日日曜日

■ANGELES MASTRETTA

■スペインの有力紙「エル・パイス」の電子版を読んでいたら、片隅にメキシコの女性作家アンヘレス・マストレッタのブログ「自由港」へのリンクが張ってあることに気づいた。アクセスしてみると、もう一年半ほどつづいているブログで、最近はほとんど毎日のように更新されている。

日付をさかのぼって見ていくと、文字だけのブログだが、画像に出くわすこともある。三月十三日付けのブログでは、実弟がデザインした鮮やかなオレンジ色のメキシコ製スポーツ車が映っている。日々取りあげられる話題はさまざまで、きのうはキューバの反体制作家(エリセオ・アルベルト)の本の紹介、その前は、「矯正のためには女を叩いていいんだ」と大まじめに語られていた中東のある国のテレビ番組の話(「そいつ頭をスコップでぶちのめしたくなったわ」)。

話があちこちに飛ぶのがブログというものの特性かもしれないが、マストレッタ自身「私はおしゃべりな人たちに囲まれて暮らしている。思い出やとりとめのない話に興じる楽しみを知らない人は、私の家族や友人たち、ブログ仲間を理解できないと思うわ」と書いている。

ところでアンヘレス・マストレッタの小説は残念ながら日本語にまだ翻訳されていないが、大ベストセラーになった出世作「命を燃やして」は映画化され、昨年日本でも公開された。暴力と狡猾さを手だてに権力の中枢にのし上がっていく男の、一見「控えめで古風な妻」の物語である。男尊女卑の社会でヒロインは、マッチョな男たちを注意深く観察して、賢くしたたかな女性へと変貌を遂げていくのである。

その注意深い視線の片鱗は「自由港」でも垣間見ることができる。「私がサッカーが好きかどうかって? 九〇分もひとりで見られるほど好きではないわ。だけどサッカーを見ている男どもを見るのは楽しいわね」

2010年1月15日金曜日

■Vargas Llosa y Neruda

■南米チリのノーベル賞詩人パブロ・ネルーダは、じつに多様なものを蒐集した。揺籃(ようらん)期本と呼ばれる十五世紀頃の古書、船の舳先(へさき)を飾った木製の彫刻像、七つの海やパリの蚤(のみ)の市で手に入れた見事な巻き貝などなど…。一途(いちず)な情熱でそれらをひとつまたひとつと集めていったようだ。

とはいえ、巻き貝のコレクションはどんどん増え、しまいには棚や部屋からあふれ出してしまい、とうとうその大部分を母校のチリ大学に寄贈した。このほどそれらの貝殻のうち四百個ほどがスペインへ送られ、目下マドリードのセルバンテス文化センターで展示されている。潮騒の音が流れる空間で見学者たちは、さまざまな形や色の巻き貝を眺めながら、かつての所有者であった心豊かな海の詩人に思いを馳せるのである。

晩年のネルーダは、チリの首都サンチアゴから車で二時間ほどのところにある海辺の町イスラ・ネグラで過ごすことが多かったが、太平洋を望む海岸の小高いところに建つ家には、陸に乗り上げた船のおもむきがあったという。そこでときおり宴会が開かれ、美食家のネルーダは、若い作家や芸術家たちに美味な料理とワインをふるまった。ペルーの作家バルガス=リョサも若き日に招かれ、そこここに置かれた蒐集品の数々に感嘆の声をあげたひとりだ。木製の船首像や船の舵(かじ)や羅針盤、色とりどりの瓶や海洋図、マッチ棒でつくった帆船を内蔵したボトルなどなど、「まさしく詩的な空間だった」と述懐している。

天井が低く、ドア口が小ぶりな部屋もあり、船室にいるような心持ちにさせられた。そして詩人は、朝目覚めると、双眼鏡を手にとって、ベッドに入ったまま大海原を行き交う船を眺めた。またときには長く繊細な指で、巻き貝の表面をなで、その神秘的な美しさを愛(め)でた――カリフォルニアから/トゲだらけの骨貝を持ってきた/そのすき通ったトゲは蒸気に包まれ/トゲだらけの飾りは凍った薔薇のようだ/内側の口蓋はピンク色に燃え/肉の厚い花冠がやさしく影をおとしている。(松田忠徳訳)
「北海道新聞」2009-12-22

2009年11月18日水曜日

onetti

■今年は、南米ウルグアイの作家フアン・カルロス・オネッティ(一九〇九~一九九四)の生誕百年にあたる。オネッティは一九六〇年代にラテンアメリカ文学の世界的な隆盛を築いた作家のひとりである。その作品は時の試練をくぐり抜け、いまなお新しい読者を魅了してやまない。邦訳のある『井戸』や『はかない人生』など、主要な作品の新装版も出そろった。また折りよくペルーの著名な作家バルガス=リョサの新作『フィクションへの旅――オネッティの世界』が刊行され、オネッティをめぐる話題をさらに活気づかせている。

ところで独裁政権に祖国を追われたオネッティは、六十代半ばにスペインに移り住んだが、晩年の数年はほとんどベッドに横たわって過ごした。その様子を伝える写真を、ときおり新聞で見かけたが、たいがいタバコを片手に、少しだけ上体を起こして面白くなさそうに、だが、どこかいたずらっぽくカメラのレンズを見つめていた。

バルガス=リョサによれば、現代作家としてのオネッティの功績のひとつは、物語をつくり出すこと自体を小説の題材にしたことだ。登場してくる男女たちは、イマジネーションを頼りに、不満だらけの現実から新たな世界への「逃亡」をみごとにはかってみせるのだという。

そういえば、『井戸』や『はかない人生』でも主人公は、落伍者としての孤独や悲しみや挫折感を味わいながらも、ぎりぎりとところでその日常から脱出して、別の確固たる現実を空想しはじめる。文学の本質はまさにそこにあるのだとリョサは力説する。

ところで晩年ベッドに横たわり続けたオネッティだが、たぶんそれらの日々は彼にとってさほど退屈ではなかったろう。若い頃に書いた『井戸』にはすでに「それだけで充分幸せを満喫できると思った。あとは暗闇に向かって目を開き、適当な夢を見ればよかった」とある。
「北海道新聞」2009-10-20
 

2009年6月21日日曜日

JULIO CORTAZAR■PAPELES INESPERADOS

■亡くなってから二十五年になるアルゼンチンの作家フリオ・コルタサル。その人気はいまも世界的に根強く続いている。日本では昨年、短編集『愛しのグレンダ』が刊行され、文庫本の『悪魔の涎・追い求める男』も読み継がれている(共に岩波書店)。ユーチューブでは、「追い求める男」のモデルといわれる伝説のアルトサックス奏者チャーリー・パーカーの演奏をバックに、コルタサルの朗読を聞くことができる。長くフランスで暮らしたせいか、そのスペイン語は独特な抑揚で、なめらかに、そして淀みなく続くのである。

そんなコルタサルだが、つい先月(五月)、新たな作品がスペインとアルゼンチンで同時に出版され話題を呼んでいる。コルタサルの最初の妻、アウロラ・ベルナルデスがパリの家の古いタンスの中に見つけた大量の原稿である。引き出し一杯分の原稿が、『予期せぬ原稿』という五百ページほどの分厚い本となった。未発表の短編や詩や随想、あるいは『マヌエルの教科書』や『ルーカスと呼ばれた男』といった長編から省かれた断章、講演や序文の草稿などが並んでいる。その多様なありさまは、コラージュ風の構成を好んだコルタサルの作風を思い起こさせる。コルタサルの愛読者や研究者にとって、まさしく予期せぬプレゼントとなった。

ところで、この本の編纂も手がけたアウロラ・ベルナルデスは、コルタサルの遺言により著作権の単独相続人に指名され、この二十五年間、献身的にその著作の管理と保護にあたってきた。とりわけ数年前に編纂した三巻本の大ぶりな書簡集は多くの人を驚かせた。もともとは翻訳家で、フォークナーやサルトル、イタロ・カルヴィーノなどをスペイン語に翻訳してきた。来年で九十歳になるが、『予期せぬ原稿』の大きなポスターの前に立つ彼女の笑顔は、控えめで初々しい。若い頃のコルタサルとの共訳、エドガー・アラン・ポーの全短編は、名訳として名高い。
「北海道新聞」2009年6月

2009年3月14日土曜日

De Gabo a Mario

■一月末にスペインで『ガボとマリオ』という本が刊行され、話題を呼んでいる。ガボというのは、コロンビア出身のノーベル賞作家ガルシア=マルケスの愛称で、マリオは、ペルーの著名な作家バルガス=リョサのことである。

ラテンアメリカ文学の両雄と称せられるふたりの出会いから決別にいたるまでのさまざまなエピソードがつづられている。

一九七六年二月十二日、腕を広げてにこやかな笑顔で近づいてきたマルケスの顔面に、リョサはいきなり強烈なパンチを食らわせた。マルケスは試写室の絨毯の上にひっくり返った。

これはうわさとして今日まで伝わってきた話で、私も半信半疑でその話を聞いてきたが、昨年になって、メキシコの有力紙のスクープとしてそのときの写真が掲載された。

マルケスは左目のまわりが黒く腫れあがり、鼻のつけ根近くにも傷があった。

しかしながら、マリオがなぜガボを殴りつけたのか、その理由は誰にもわからない。そしてこの本を読んでもわからないのである。ふたりとも固い沈黙を守ってきたからだ。

リョサのその時のマルケスへの怒りはおそらく個人的なものだったろうけれど、キューバ革命やフィデル・カストロの評価をめぐって両者がしだいに疎遠になっていったことは確かだ。

それ以前のふたりは、とりわけ一九六〇年代後半のバルセロナでは、家族ぐるみで行き来し、周辺にはコルタサルやフエンテスやドノソといった作家たちがいた。またカルメン・バルセルスやカルロス・バラルといった名だたる出版人たちもいた。彼らによってやがてラテンアメリカの新しい小説群は世界に押し出されていく。

当時のガボとマリオについて語ることは、そのままラテンアメリカ文学の隆盛期の到来について語ることでもある。
「北海道新聞」2009-03-10

2009年1月25日日曜日

ジュノ・ディアス

■米国で2008年度のピューリッツァー賞(小説部門)に輝いたのは、ドミニカ共和国生まれのジュノ・ディアス。受賞作『オスカー・ワオの短くも凄まじい人生』は、英語の中にときおりスペイン語が混ざる独特の文体で書かれており、エネルギッシュでみずみずしい語り口が作品の魅力のひとつになっている。6歳のときにアメリカに移住したディアスだが、40歳になる現在もスペイン語を流暢に話す。

『オスカー・ワオの短くも凄まじい人生』の主人公は、やはりヒスパニックだが、どこにもいそうなオタク的な若者だ。でっぷりと肥え太り、テレビゲームやファンタジー小説に夢中で、心優しいのだけれど、女の子にはまるでもてない。表面的には、それが彼の最大の悩みである。家でごろごろしていると、姉に叱りとばされる。「髪を切ったらどうなのよ。その眼鏡もなんとかして。運動ぐらいしなさいよ。それからそのポルノ雑誌、捨ててちょうだい。いやらしいんだから。母さんだって目のやり場にこまってるじゃないの。これじゃあ、一生かかったって、女の子ひとりナンパできやしないわよ」

オスカー・ワオの孤独でどこかユーモラスな日常とともに、その母親や祖父たちの過去も描かれる。こちらの舞台は祖国のドミニカ。30年あまり君臨した独裁者トルヒーヨの時代と重なる。その意味では『オスカー・ワオ~』は、ラテンアメリカの作家たちが好んで描いてきた独裁者小説の系譜に連なる作品であるともいえる。現にバルガス・リョサも『山羊の宴』(2000年)で同じくトルヒーヨを主人公に取りあげている。

しかしながら、どうやらジュノ・ディアスにはそうした独裁者小説と一線を画したい思いがあったようだ。ディアスのトルヒーヨはなかなか姿を見せない。しかし確かにオスカー・ワオの不運な人生の根源に存在しているのである。「トルヒーヨという人物が提供する物語は、あまりにも強烈だからね。彼について書くとなると、知らぬ間にその神話化に手を貸すことなるんだ。リョサだってそうなったんだからね」とあるインタビューで答えている。

『オスカー・ワオの短くも凄まじい人生』のスペイン語版は、刊行されたばかりである。英語とスペイン語が交錯する文章は、すべてスペイン語だけになったが、幸いにもすぐれた翻訳で、語り口の鮮烈さはじゅうぶん味わえる。ラテンアメリカの文学にとっても特別な意味を持つ作品になっていくにちがいない。
「朝日新聞」2009-01-10

2008年12月14日日曜日

カルロス・フエンテス

■メキシコの著名な作家であるカルロス・フエンテスは、この十一日、八十歳の誕生日を迎えた。精悍な顔つきはあまり年齢を感じさせず、創作欲もなお旺盛だ。このほど五百ページ余りの大作「意志と富」を上梓した。

八十歳というのは、やはり特別な節目だろう。ニュースになり、世界中でイベントが企画される。メキシコでは、ノーベル賞作家ガルシア=マルケスが馳せ参じ、メキシコ国立自治大学では、研究者たちがフエンテスの文学について論じ合うことになっている。

折しも今年(2008年)は、フエンテスの出世作「大気澄みわたる土地」が世に出てから五十年目にあたる。それを記念して主人公の銅像がメキシコ市の一角に建つことになった。フエンテスの作品群にとっても、今年は特別な年なのである。

ところで、新作「意志と富」は、ある意味では「大気澄みわたる土地」の続編だと言える。なにしろ五十年後のメキシコがそこに描きだされるのだから。

「一九四〇年代の後半には、場末のキャバレーを夜中の二時に出ても、歩いて家に帰ることができた。いまでは、家からすぐ目と鼻の先の角でも、とても歩いていこうなんて思わないよ」とフエンテスは最近のインタビューで述べている。

「意志と富」では、夜の砂浜に転がる若者の頭部が語り手だ。「ぼくはメキシコで今年刎(は)ねられた一千番目の首だ。今週の五十番目、きょうの七番目の首だ」。

麻薬マフィアとの戦いは熾烈をきわめているようだ。今年だけでも死者はすでに四千人を超えた。このまま滅びるか、なんとか生き返るか、いまこの国はその瀬戸際に立っている、とフエンテスは言う。

八十歳の今も午前中は執筆に没頭する。「けっこう勤勉な性分でね。朝の八時から十二時まで机に向かうよ。この商売は、休むと書けなくなるもんでね」
「北海道新聞」2008-12-2

2008年11月24日月曜日

ラス・カサス

■ラス・カサスは16世紀に活躍したスペインのカトリック司祭である。ラテンアメリカの先住民(インディオ)に対する残虐非道なふるまいを激しく非難し、スペイン支配の不当性を訴えつづけた。中南米ではインディオの擁護者として称えられてきた。

この本では著者はそうしたラス・カサスの足跡を追う。生まれ故郷のセビージャや十七歳の時に大西洋を渡って最初に訪れたカリブ海のサント・ドミンゴ、従軍司祭として征服行に加わったキューバ、あるいは平和的な植民改宗事業を企てたクマナ(ベネズエラ)、ひと月だけ訪れたパナマ、たどり着けなかったペルー、司教として赴任したチアパス(メキシコ)などなどだ。

それらの現場に、当時であれ五百年後の今であれ実際に立つことで初めてわかることがいくつもあるようだ。じつはラス・カサスの研究は、日本でも大いに進められてきた。評伝はあるし、代表作の『インディアスの破壊についての簡潔な報告』や『インディアス史』なども日本語で読むことができる。だが、「その足跡をくまなく脚で歩いて検証した形跡はあまり見受けられない」のは確かだ。「ラス・カサスの晩年の言動に対する細心の検証作業はあっても、臨終のベッドが置かれた修道院へ赴くという「手間」は省かれているのではないか…」という著者の指摘はうなずける。

とはいえ、この本でとりわけ驚かされるのは、そこかしこで発揮される著者の旺盛は批評精神だろう。訪れる先々で過去や現在、歴史や政治、さまざまな社会問題や事件が縦横に語られ、独自の批評が加えられる。キューバではチェ・ゲバラとラス・カサスが対比され、パナマではガルシア・マルケスや松尾芭蕉、あるいは海賊ドレークや征服者ピサロが想起される。過剰なまでに繁茂する思考は、ラス・カサスの言説と同様に挑発的である。

2008年9月18日木曜日

スペイン語とカタラン語

■この夏、三年ぶりにバルセロナを訪れたが、カタラン語(カタルニア語)の存在が圧倒的なものになっているのに驚いた。店の看板や道路の標識にいたるまですっかりカタラン語に統一されていた。カタラン語こそカタルニア自治州の言語であるというメッセージがひしひしと伝わってくる。

バスク語など独自の言語を公用語にしている自治州がほかにもある。とはいえ、これまで急進的な言語政策をとってきたのはカタルニア自治州で、近年は学校の授業ももっぱらカタラン語でおこなわれるほどである。

そうした政策に異を唱えるスペイン人はむろん少なくない。バルセロナで暮らすことになった者にとって、子供の教育が悩みの種であるとよく聞く。またスペイン人でありながら、スペイン語をろくすっぽ話せない若い世代が出てきたと嘆く人びともいる。

その傾向がさらにエスカレートし、他の自治州にも広がることを懸念した哲学者のフェルナンド・サバテールは、この夏、「共通語を守るための陳情書」を認(したた)め国会に提出した。そこでは、確かにカタラン語もバスク語もガリシア語も等しくスペインの公用語であるが、スペイン国民唯一の共通語はスペイン語(カスティリア語)であり、スペイン語話者の権利は、スペイン国内のいかなる地域においても侵されてはならないと述べ、そのことを憲法や法律で明確にするように求めている。

この陳情書にはペルーの著名な作家バルガス=リョサも署名している。そして署名を求められたけれど断ったと新聞のコラムで告白したのはスペインの人気作家ローサ・モンテーロ。四億人もの話者がいるスペイン語は少しも危機に瀕していないし、その巨大な存在に呑み込まれないための奮闘はわからぬわけでもない、というのは彼女の言い分。陳情書をめぐる熱い攻防は秋になっても続きそうだ。

2008年7月17日木曜日

アルモドバル

■スペインの映画監督ペドロ・アルモドバルはこのほど本格的なブログを始めた。二週間に一回ぐらいのペースで更新されている。一回ごとの分量はかなりのもので、小見出しがいくつも並び、さまざまなテーマでエッセイ風に書きつづっている。写真も随所に折り込まれ、ビジュアル的にも楽しい。

アルモドバルは、「オール・アバウト・マイ・マザー」「トーク・トゥ・ハー」や「ボルベール(帰郷)」などの作品で多くの世界的な賞に輝き、自ら手がけた脚本でもフランスやアメリカで話題をさらってきた。文章をつづることにかけては、若い頃の小説『パティ・ディプーサ』以来、独特の才能を発揮してきたアルモドバルである。今回のブログでも、その文章の軽快なリズムとみずみずしい感覚は申し分なく健在である。

ところで三月に開始されたブログの冒頭には、次回作の脚本の草稿が昨年の十月にできあがり、目下六回目の手直しにかかっている、とある。そしてメキシコやモロッコへ出かけた折りの、ホテルのテラスとおぼしき場所で、頬杖をついて原稿に手を入れているアルモドバルのスナップ写真が添えられている。

また旅先でさまざまな小物を買い集めるのが趣味、と語ったエッセイでは、だいぶ以前、カリブの島で見つけた、目の形をした風変わりな装身具が、今回の映画で使えるかもしれないとふと思い、それをイヤリングに作りかえて、ペネロペ・クルスにつけてみたら、その魔よけ的な霊力が俄然【がぜん】伝わってきたという。

「ボルベール」に続いてペネロペ・クルスが主演を演じる新作映画で、アルモドバルは彼女のなかに棲むさまざまな女性をまたひとり見つけ出すつもりだと意気込んでいる。最新のブログでは、たしかに大きく変貌を遂げた銀髪のペネロペの写真が写し出されていた。

撮影会開始は間近いようで、このブログはその間もずっと続く見込みだ。ブログはスペイン語のほかに、英語やフランス語のバージョンも同時にアップされている。

2008年4月14日月曜日

楽園への道

■この小説はバルガス=リョサの比較的新しい作品である。七〇歳を越えた今もリョサは、二,三年おきに新作を発表しており、創作意欲には少しも翳りがみられない。『楽園への道』は二〇〇三年にスペインで刊行され、好評を博した。

主人公は十九世紀の前半に、フランスで労働者や女性たちの権利確立のために奮闘した社会運動家フローラ・トリスタンと、その孫にあたる後期印象派の画家ポール・ゴーギャンである。ふたりの生涯は、二十二章に渡って交互に語られ、五百ページ近い作品となっている。

ところでフローラもゴーギャンも、リョサの出身国ペルーと浅からぬ縁がある。フローラは三十代のはじめにこの国を訪れ、代表作『ペルー旅行記――ある女パリアの遍歴』(法政大学出版局)を書いた。一方ゴーギャンは、あまり知られていないことだが、幼年時代の数年間をこのアンデスの国で過ごしているのである。

ペルーから帰国して、やがて「人間に奉仕すること」をめざすようになるフローラだが、リョサはとりわけその生涯の最後の八ヶ月に焦点を当てる(一八四四年のことで、彼女は四十一歳になっている)。冒頭のエピソードでは、朝早く起き出して、セーヌ河畔の船着き場から、靴職人の小さな集会へ向かうフローラの姿が描きだされる。

十数時間かけてたどり着いたまちでは、組合を組織して団結するよう男たちに熱っぽく訴える。むろん女性がそうした主張を説いて回るのを奇異な目で見られていた時代だ。しかし彼女はひるむどころか、教会の司祭とも渡り合う。――「女たちがどんなに両親や夫や子供たちから虐げられ、不当に扱われ、搾取されているか、気づいていないのだろうか」

フローラ・トリスタンは、労働運動やフェミニズムの先駆者として近年再評価の著しい女性である。彼女をそうした社会運動へ駆り立てたものは何だったのか、不遇な少女時代や波乱に満ちた結婚生活とともに描きだされていくのである。

いっぽうゴーギャンについては、タヒチに渡ってから、ヒヴァ・オア島で亡くなるまでの十二年間の物語が主軸となる。ヨーロッパ文明を捨て、南太平洋の熱い島にたどり着くのは一八四一年、四十三歳のときだ。「百ヤードのキャンヴァス布」を携えていた。

タヒチまでやってこなければならなかった理由についてゴーギャンは言う。――「本物の絵を描くには文明化された我々を払い落として、内部にある野蛮人を引き出さねばならない」。それができた最初の傑作は「マナオ・トゥパパウ」(彼女は死者の霊について考えている、もしくは、死者の霊は彼女を思い出している)という作品だ。リョサは巧みなストーリーテリングでそのみごとな絵の達成を実感させてくれる。

『楽園への道』の最終章ではゴーギャンは、もはやほとんど目が見えない状態で、脚が腐乱し、自ら痛み止めのモルヒネを打っている。そして夢うつつのなかで日本に思いを馳せる。――「あの国へ楽園を探しに行くべきだったのだよ」

先にも書いたように、フローラとゴーギャンの物語は交互に語られる。ふたりは祖母と孫の間柄だが、ゴーギャンはフローラの死後に生まれた。当然のことながらふたりは物語のなかでも会うことがない。時代も舞台も登場人物も異なる別々の物語である。

とはいえ、両者のあいだを目に見えない電流のようなものがしきりに飛び交う。フローラもゴーギャンもそれぞれの領分で大胆な企てに挑み、ひたすら見果てぬ夢をめざした。その夢は楽園と言いかえてもよい。一途な情熱の、栄光とその代償の物語である。

2008年3月16日日曜日

Mario Bellatin

「ムラカミ夫人の庭園」や「ナガオカ・シキ――鼻のフィクション」といったタイトルの小説を発表して、スペイン語圏の国々で人気を博している作家がいる。メキシコのマリオ・ベジャティン(1960~ )である。ペルーで育ち、この国で小説を書きはじめたので、ペルーの作家と紹介されることもある。二つの国籍を持っており、現在はメキシコで暮らしている。痩身で、頭は剃髪しており、少々異様な風貌の持ち主である。

同様に、彼の書く小説の外観にしても、登場する人物たちにしても、一風変わっているのである。たとえば「ナガオカ・シキ」の主人公(名前は正岡子規を連想させるが無関係)は、とてつもなく大きな鼻をもって生まれ、若くして仏門に入るが、信仰心の欠如でやがて追放されてしまい、田舎で小さな写真店を営みながら、写真と文学の相関関係についての本を著すと、これがラテンアメリカの作家たちにも大きな影響を与えることになる。谷崎潤一郎と親交があり、芥川龍之介の短編「鼻」のモデルとも目されている、というのである。

小説の巻末には芥川の「鼻」のスペイン語訳が付され、谷崎が撮ったとされる古めかしい写真も、他の多くの昭和か戦前の写真とともに、小説の中ほどに折り込まれている。

「ラテンアメリカという土地柄や、ある特定の時代に縛られたくないんだ。小説というジャンルや、これまでの饒舌なスペイン語の文体からも逃れたいんだ」とベジャティンは言う。その文体はたしかにシンプルで透明感に満ちている。「子供や普通の大人たちに終わりまで読んでもらいたいからね」と述べる。しかし平易な文章でありながら、言葉のひとつひとつが研ぎ澄まされ、すこぶる純度が高いのである。

ベジャティンの作品は、近年さまざまな外国語に訳されはじめている。ときおり読者から「ナガオカ・シキ」という日本の作家についての問い合わせがあるそうだ。しかしすべては、ある会合で好きな作家について話さなければならなかったときに生まれたフィクションなのである。

2007年12月12日水曜日

Pablo Neruda

「ネルーダのアルバム」と題された、チリのノーベル賞詩人パブロ・ネルーダ(一九〇四-一九七三年)のビジュアルな伝記がこのほどスペインで刊行された。約四百枚の写真が掲載され、ネルーダの波乱に富んだ生涯を写真と文章で追うことができる。

興味を引く断章のひとつは、一九二〇年代の終わりから一九三〇年代のはじめにかけてのもので、ネルーダ自身が、この時期のことを「ほんとうの孤独とはどういうものか初めてわかった」と述懐している。当時のネルーダは二十代の後半で、外交官として東南アジアのラングーン(現在のヤンゴン、ビルマ)、コロンボ(スリランカ)、バタビア(現在のジャカルタ、インドネシア)、カルカッタ(インド)などを転々とした。一九二八年の二月には中国や日本を訪れ、厳しい寒さに遭遇した様子を友人宛の手紙につづっている。

ヨーロッパからも遠く離れた異国での孤独な日々は、執筆中だった「地上のすみか」(一九三三年)の内省的な声調に反映されている。この時期に、何人かの女性と出会い、彼女たちに救いを求めるように恋愛し、そのつど不首尾に終わっている。そうした昂揚感と哀しい結末の体験も「地上のすみか」の作品として結実し、ネルーダの最初の詩集「二〇の愛の詩と一つの絶望の歌」とともに、多くの読者の心を今なお捉えつづけている。

今回の「アルバム」に収録された四百枚の写真を追っていくと、ネルーダのその後の変貌も手にとるようにわかる。孤独だった彼のまわりには、やがてにぎやかな声が飛び交い、多くの作家や芸術家、政治家や革命家や女優たちが集まり、ネルーダはさながら鳥たちが群れ集う緑豊かな大樹となっていく。

「大いなる歌」(一九五〇年)を経て「基本的なオード」(一九五四-一九五九年)のころになると、詩人は、玉ねぎだろうとレモンだろうと木片だろうと、目に映るものすべてを詩に歌うことができた。触ったものをすべて黄金に変えたギリシア神話のミダス王になぞらえて、ネルーダが詩のミダス王と呼ばれるようになってすでに久しい。

2007年10月8日月曜日

Frida y Diego

■今年はメキシコの画家フリーダ・カーロ(一九〇七~一九五四)の生誕百年。またその夫君であった壁画家ディエゴ・リベラの没後五十年にもあたる。というわけで、ふたりにちなんださまざまなイベントや展覧会が世界各地で盛大に開催されている。

リベラは亡くなる前に、ふたりが暮らした通称「青い家」の一室に多くの箱を封印し、自分の死後十五年間は開けないようにと友人に託した。友人は十五年どころか五十年近くその遺言を守った。そして三年前についに封印が解かれ、このほどそれらの箱の中身が明らかにされたのだ。

出てきたおびただしい品々のうちで最も多かったのは書類や手紙類だった。写真も五千枚以上見つかり、なかにはフリーダが自ら撮影したものもあった。写真家だった父親の影響や、それらの写真とフリーダの絵画との関係はすでにいろいろ取り沙汰されはじめた。

バス事故の後遺症で幾度も手術をよぎなくされたフリーダだが、背骨を支えるための石膏製のコルセットや、きゃしゃな体を包んだ民族衣裳も多数出てきたので、博物館となった「青い家」の展示コレクションは、今後いちだんと充実することになるだろう。

とはいえ、そうした品々でとりわけ興味を引くのは、やはりベッドに横たわったまま晩年にフリーダが走り書きしたさまざまな文章だ。トロツキーやイサム・ノグチなど、恋人たちに宛てた手紙を含め、フリーダの約三百点の手紙を1冊の本に編んだ研究家ラケル・ティボルによれば、フリーダはときには、同じ家の中にいるリベラにも「手紙」を書き送っていたのだそうだ。

ティボルは若い時分に「青の家」で過ごし、フリーダとリベラの暮らしぶりをわが目で見ている。新しく出てきたそれらの手紙やメモ類が、ティボルによって編まれた「フリーダ・カーロのエクリチュール」の新しい版に加えられる日もそう遠くあるまい。
「北海道新聞」2007-9-25

2007年7月16日月曜日

Mario Vargas Llosa

■五,六年前だったか、ペルーの作家バルガス=リョサは「戯曲をまた書きたいと思いませんか」という問いに、「初恋の相手はお芝居だった。今も題材が頭のなかにいっぱいある」と答えていた。

このほどそのうちのひとつが結実し、バルセロナの出版社から刊行された。ホメロスの『オデュッセイア』を翻案した『オデュッセウスとペネロペ』だ。表紙には白いあごひげをたくわえたリョサとペネロペを演じたスペインの女優アイタナ・サンチェスが見つめあっている。

じつは昨年の夏、メリダ(スペイン南西部の都市)にあるローマ時代の劇場でこの戯曲が上演されたのである。脚本を手がけただけでなくリョサは自ら英雄オデュッセウス(英語ではユリシーズ)を演じてみせたのだ。

トロイ戦争へ出かけ、各地を放浪の末に故郷に帰ってきたオデュッセウスが、苦難の歳月を貞淑な妻ペネロペに語ってきかせる。それがリョサの役どころ。その傍らでアイタナ・サンチェスは、ペネロペや旅の途中でオデュッセウスが遭遇する一つ眼の巨人キクロペス、あるいは魔女キルケや甘美な歌声のセイレンにつぎつぎと変身していくのである。

そうした仕掛けは、リョサの八〇年代の戯曲『タクナのお嬢さん』(1981)や『キャシーと河馬』(1983) にどこか相通じるものがある。ただし舞台の上で演じられるのは、作家が物語を書くことの不思議ではなく、物語を読むことの、あるいは語ることの不思議と喜びである。

ステージから降りてきたリョサは舞台俳優としての自己採点を聞かれて、「下手だったといえば謙遜にすぎるし、冴えていたといえばうぬぼれになるな」と答え、出来映えにはまんざらでもなさそうだった。

今年七一歳になったリョサだが、たいへんに若々しい。美貌のアイタナ・サンチェスとの共演はこれからも続く。次回作『千一夜物語』の完成も間近いという。こんどの役柄は、シェヘラザード姫に物語を語らせるあの非情なペルシアの王様だ。
「北海道新聞」2007-7-10

2007年5月27日日曜日

Haruki Murakami

■このところスペイン語圏で村上春樹の作品があいついで翻訳され、ちょっとしたブームになっている。『ねじまき鳥クロニクル』『スプートニクの恋人』のあと、『ノルウェイの森』で火がつき、『国境の南、太陽の西』『海辺のカフカ』と続いている。代表作の『ねじまき鳥クロニクル』がいち早く翻訳され、日本での発表順とは必ずしも一致しないが、熱烈な愛読者がスペインやアルゼンチンでも誕生し、とにかくつぎの作品を読みたいというような状況になっている。日本では、小説だけでなく、エッセイや、愛読者と交わした厖大なメールのやりとりをまとめた本さえあることを彼らが知れば、日本語を解するわれわれをさぞうらやましく思うにちがいない。

七百ページ近い分厚い一冊の本になった『ねじまき鳥クロニクル』や、ほどよい厚みの『スプートニクの恋人』を読んでみたが、なかなかみごとな訳である。いずれもルルデス・ポルタとジュンイチ・マツウラの共訳で、村上春樹の文章の都会的な軽やかさと叙情性が申し分なくスペイン語に置き換えられている。――「それは彼女にライカ犬を思い出させた。宇宙の闇を音もなく横切っている人工衛星。小さな窓からのぞいている犬の一対の艶やかな黒い瞳。その無辺の宇宙的孤独の中に、犬はいったいなにを見ていたのだろう?」(『スプートニクの恋人』)これはスペイン語で読んでも完璧である。

ところで近年、頭角を現してきたラテンアメリカの一群の新しい作家たちがいる。たとえばペルーのアロンソ・クエトやボリビアのパス・ソルダンなどだ。じつは彼らも村上春樹の信奉者である。アメリカのコーネル大学の教壇に立つパス・ソルダンなどは、「『スプートニクの恋人』や『ノルウェイの森』を読んで、この日本人が確かにたぐい希な作家であることがわかった。ポストモダンなテクストを書きながらも人を感動させることができる。(中略)そして不可視な現実と実在する非現実の境目に食い込むのだ」とコラムで述べている。

ガルシア=マルケスにしてもボルヘスにしても、この世のマジカルな層を描きだして、多くの傑作を生んできた。そうした巨匠たちを乗りこえる手だてを見つけることがラテンアメリカの新しい作家たちの課題となっている。そうしたなかで、東洋の作家がそれを軽やかでしなやかな言葉でやってのけていることに驚嘆しているようだ。
「朝日新聞」2007-4-21

2007年5月20日日曜日

Sergio Pitol

■メキシコの作家セルヒオ・ピトルは、スペイン語圏の最も重要な文学賞であるセルバンテス賞を受賞した。下馬評ではペルーのブライス・エチェニケやウルグアイのマリオ・ベネデッティらの名前もあがっていたが、けっきょく72歳のピトルに決まった。授賞式はスペイン国王臨席のもとにセルバンテスの命日に当たる4月23日におこなわれる。

ピトルは長年、外交官として活躍するかたわら小説や評論を書いてきた。北京、ワルシャワ、モスクワなどに赴任し、大使としてチェコのプラハでも数年暮らしたことがある。作品ではそうした異国でのエピソードや、幼くして両親を失い、祖母の家に引きこもって暮らした日々のことが想起される。

「私の作品では、思い出や評論や小説など、いろんなジャンルが混ざり合うんです」とあるインタビューで述べている。「自分の書く評論はいささか退屈で、暗くなりがちなので、あるときふと、小さな物語を折り込んだり、夢の切れ端を忍ばせたり、身近な人物を登場させたりしてみたんだ」

このスタイルが功を奏し、受賞の理由にそうした「多様なジャンルの巧みな融合」を果たしたことがあげられている。ポストモダンの系譜に連なるような斬新で「開かれた」作品を書いたというわけである。
さらに、赴任した先々の作家たち、たとえばゴンブローヴィッチ、アンジェイェフスキといった東欧の作家たちをつぎつぎにスペイン語圏に翻訳紹介したその功績が称えられた。チェーホフ、コンラッドの作品まで入れると、百冊近い作品の翻訳がある。

外交官として仕事ぶりはどうだったのかと気になるところだが、彼の人気と評価の高まりはいずれにせよ、退官後の『フーガの芸術』(1996)からだろう。小説とも評論とも随筆ともつかぬそのシームレスなスタイルは、意外にも日本のわれわれには親しみやすい。そういえば、仏教的なものが自分にしっくりくるともピトルは述べていた。
「朝日新聞」2006-2-14

2007年5月13日日曜日

Octavio Paz

■ペルーのカトリカ大学の出版局から芭蕉の『奥の細道』のスペイン語訳が送られてきた。

いつものように茶封筒に、麻ひもでくくっただけの簡素な梱包だ。長旅でぼろぼろになった封筒から、大層な本が出てきたりするので、いつも驚かされる。

『奥の細道』は、五十年ほど前に、メキシコの詩人オクタビオ・パスと林屋栄吉氏によって翻訳された。これまでスペイン語に訳された日本文学のなかで最も幸運な作品だろう。パスはのちにノーベル文学賞を受賞することになるが、当時は四十歳代の前半で、まだ世界的には知られていなかった。

スペイン語版『奥の細道』はこの半世紀のあいだに、メキシコやスペインなどいくつか国でも刊行され、そのたびに内容が一段と充実してきた。一九七〇年代のラテンアメリカ文学のブームの時代には、スペインの有力なセイクス・バラル社から刊行され、「松尾芭蕉の詩」のほかに、新しく「俳句の伝統」と題された長文の評論が冒頭に付され、訳書とはいえ、パスの代表作のひとつとして、スペイン語圏の各国で広く愛読されるようになった。

今度のペルー版でも、この充実の路線が継承されたようだ。一九九〇年代に日本で刊行された豪華本にならって、与謝蕪村が写した『奥の細道』とパスが翻訳したテキストが左右のページに相対し、さらに蕪村の手になる色刷りの俳画が随所に折り込まれているのである。

かつてさまざまな国の詩人たちと、西洋で初めて連歌の制作に挑んだパスである。ペルー版『奥の細道』では、期せずして、十七世紀の芭蕉や十八世紀の蕪村と時空を超えたコラボレーションをなしとげたといえるかもしれない。魅力を増したこの訳書は、さらに多くの読者を得ていくにちがいない。
「北海道新聞」2003-10-21

2007年4月30日月曜日

García Márquez

■コロンビアのノーベル賞作家ガルシア=マルケスの代表作『百年の孤独』の新たな版がこのほどスペインの出版社から刊行された。記念特別版なるもので、今年は、マルケスが八〇歳を迎え、『百年の孤独』が世に出てからちょうど四十年という節目の年にあたる。

スペイン王立アカデミーを中心に各国のスペイン語アカデミーが共同で編集を担当し、マルケス自身も校正刷りに目を通し、思い違いを指摘されていたいくつかの箇所に手を入れた。またペルーのバルガス=リョサやメキシコのカルロス・フエンテスといった著名な作家たちの評論やエッセイも収められ、五十五ページにおよぶ詳細な用語集も付された。

これが店頭に並ぶと発売後五日間でたちまち十五万部売れたそうだ。最初の一冊は、三月の末にコロンビアで開催された第四回スペイン語国際会議の席上でマルケスに手渡されたが、このセレモニーのためにマルケスは居住するメキシコから帰国し、スペインの国王夫妻やコロンビア大統領も参列した。

その折りのマルケスのスピーチは断片的にさまざまなメディアで紹介されたが、たまたま私が見たスペインのテレビニュースでは、白いスーツ姿のマルケスは『百年の孤独』をめぐるユーモラスなエピソードを語って会場を湧かせていた。

わりによく知られたエピソードだが、『百年の孤独』をメキシコでようやく書きあげたとき、メルセデス夫人が質屋などで工面してくるお金もとうとう底をつき、原稿の束をアルゼンチンの出版社へ送る郵便代にも事欠いたという話。郵便局で小包を計量したところ、「八十二ペソ」と言われたが、手持ちは五十三ペソしかなかった。思案の末、「原稿をふたつに分け、とりあえず、半分だけブエノスアイレスへ送った」。しかし送ったのは後半の部分だったことにあとになって気がついた…。

その『百年の孤独』はこれまで約四十ヵ国語に翻訳され、四千万部以上売られている。今回のスペイン王立アカデミー版も、三年だけの限定販売だが、百万部を越える日もそう遠くないだろう。
「北海道新聞」2007-4-24

2007年4月6日金曜日

Juana Inés de la Cruz

■近年メキシコの尼僧フアナ・イネス・デラクルスの著作が目につく。なかでも恋愛詩を収録した小ぶりな詩集が人気があるのか、何種類か出まわっている。スペイン語圏だけでなく欧米でも読まれており、このほどスペイン語・英語対訳の『尼僧フアナの愛の詩集』が送られてきた。百ページ足らずの本だが、フアナ・イネスのソネット(十一音節の十四行詩)がゆったりと組まれ、各ページに愛らしいキューピッドの木版画があしらわれている。

年々再評価の高まる尼僧フアナだが、じつは彼女が亡くなってから三世紀になる。メキシコがまだスペインの植民地であった十七世紀後半に、読書と学問に専念できる環境をもとめて、副王の華やかな宮廷で女官として仕えたあと、男尊女卑の結婚を嫌って、十代の終わりに修道女になる道を選んだ才色兼備の女性である。修道女になったあとも、副王夫人の庇護を受け、その求めに応じて作品をつづり、宮廷のサロンで披露した。

それらの作品が織りなすバロック的な愛の比喩の背後にあるのは、宗教的な情熱なのか、宮廷時代の失恋の痛手なのか、はたまた単なる豊かな読書体験なのか、これまでさまざまな説が語られ、興味が尽きない。

いずれにせよ、スペインにまで文名をとどろかせたフアナだが、世俗的な文芸に憂き身をやつしているとして教会から厳しく糾弾されてしまう。それでも反論を試み、司教に宛てた文章のなかで、女性の教育を受ける権利や、その文化的な役割について先駆的な論陣を張るが、ますます四面楚歌に陥り、筆を折らざるを得なくなった。

 『尼僧フアナ・イネス・デラクルスあるいは信仰の罠』と題された分厚い評論のなかでメキシコのノーベル賞詩人パスが皮肉る――黄金世紀の巨匠たちも神父だった。だが彼らが恋愛詩を書いても、教会の誰も文句をいわなかったではないか。
「北海道新聞」2004-6-22

2007年3月25日日曜日

Isabel Allende

■ラテンアメリカの女性作家のなかで圧倒的な人気をほこるチリ出身のイサベル・アジェンデ。その新作『わが魂のイネス』がこのほど(2006年)ラテンアメリカやスペインの出版社からあいついで刊行された。十六世紀にスペインの征服者たちが勇んで新大陸の各地に乗り込んでいった時代に、彼らにまじって活躍した女性イネス・スアレスの話である。これまで歴史の表舞台でとりあげられることなく、ほとんど忘れられてきた存在であるが、アジェンデにいわせると、それは「歴史がたいがい男たちの手で、それも勝者側の白人たちの手で、書かれてきたから」である。イネス・デ・スアレスはスペインから新世界に渡り、屈強な征服者たちと行動を共にし、今のチリで先住民のマプーチェ族と戦い、サンチアゴのまちを建設した。

ところで、アステカ王国を滅ぼした征服者がコルテスであるように、あるいはインカ王国を滅亡させたのがピサロであるように、勇敢なマプーチェ族をねじ伏せ、現在のチリに当たる地域を征服したのはペドロ・デ・バルディビアという猛者である。『わが魂のイネス』はじつは、イネス・スアレスとこのペドロ・デ・バルディビアとの数奇な恋物語でもある。チリ征服の偉業は、ふたりの魂の強力な結び付きによってなしとげられたというのがアジェンデの見方である。イネスの知恵と才覚によりバルディビアは何度も窮地を救われ、ときには彼女自身が短刀を握って兵士たちの先頭に立ち、首長の首をかき切ったこともある。それらのエピソードは史実に基づいており、アジェンデは当時の資料を読みあさったのだという。

イサベル・アジェンデは日本でも『精霊たちの家』『エバ・ルナ』『パウラ』などの作品で知られる。米国カリフォルニアに生活の場を移してからもう二十年近くになる。朝起きると、まずしっかり嵩のあるヒールの靴をはくのだそうだ。「ちょっとおチビさんだものね」。新しい作品はかならず一月八日から書き始める。今回も物語がすらすら口をついて出たという。「わたしの名はイネス・スアレス。チリ王国サンチアゴの住人……」アジェンデには現代のシェヘラザードとの異名がある。
「北海道新聞」2006-11-14

2007年3月18日日曜日

Mario Vargas Llosa

■ペルーの作家マリオ・バルガス=リョサの新しい長編『すぐむこうの楽園』が、このほど(2003年3月)スペインのアルファグアラ社から刊行された。またも五百ページ近くの大作である。後期印象派の画家ポール・ゴーギャンと、その祖母フローラ・トリスタンが主人公だ。ゴーギャンが、南太平洋マルケサス諸島のヒヴァ=オア島で亡くなったのは一九〇三年だから、今年でちょうど百年になる。

リョサが昨年、タヒチへ取材に出かけたことは、ペルーの雑誌の記事で知っていたが、どうやらその折りに、娘のモルガナ・バルガス=リョサが同伴していたようで、彼女の手になる写真集『楽園の写真』も、父親の小説と同時に出版された。

日本では画家ゴーギャンはあまりにも有名だが、祖母のフローラ・トリスタンのことはあまり知られていない。彼女はフランス生まれだが、父親はペルー人で、十九世紀の前半に、父親の故郷を訪れたさいの見聞をまとめた著作もある。その縁で、ペルーの文学史にも登場する。とはいえ、フローラ・トリスタンは、いまでは、むしろ労働者の団結や、女性の地位向上をいち早く訴え、その実現のために先駆的な働きをした女性として、世界的に評価されているのである。

バルガス=リョサの『すぐ向こうの楽園』では、このフローラと孫のゴーギャンの波乱にみちた生涯が二十二章にわたって交互に語られる。フローラは熱情にかられたように「理想」を追い求め、孫のゴーギャンもまた、この地上に「楽園」を求めてタヒチへおもむく。素朴な人びとや手つかずの自然、横溢する生命力をそこに見いだすわけだが、最後の章でリョサは、ほとんど目の見えなくなった悲惨な姿のゴーギャンに、ここは楽園などではなかった、自分は日本に行くべきだったといわせるのである。

表題の『すぐむこうの楽園』は、手が届きそうで永遠に手が届かないユートピアの本質を暗示している。
「北海道新聞」2003-7-29

2007年3月7日水曜日

Julio Cortázar

■日本でも評価の高いアルゼンチンの作家フリオ・コルタサル。短編に定評があり、主要なものは、あらかた日本語で読むことができる。たとえば『悪魔の涎・追い求める男』(岩波文庫)や『すべての火は火』(水声社)。とはいえ、コルタサルは小説のほかに、かなりの数の詩も書いた。それらがこのほど一冊の本にまとめられた。「詩と詩論」と題されたコルタサル全集の第四巻である。スペインの出版社から刊行され、千四百ページを超える分厚い本となった。

マドリードでの出版報告会では、コルタサルの最初の妻で、その最期を看取ったアウロラ・ベルナルデスは、「コルタサルは短編の書き手としてあまりにも有名になったので、十二歳の時から詩を書いていたことを多くの人びとは忘れてしまった」と語っていた。そんな事情もあってか、さまざまな雑誌に散逸していた作品や未発表の作品なども地道に探しだされ、この堂々たる第四巻が編まれたのである。

ほかの者たちが引きあげ/空になったグラスや汚れた灰皿がのこり/君とふたりだけになる/静かな淵のように君がそこにいることが/なんと素敵なことだったか/夜の端に君がいて/そしてなおもそこにいて、時を凌駕する/……」

「パーティーのあとで」と題された作品の一部である。しなやかなリズムやノスタルジックな気分は、パリを舞台に南米の不思議な娼婦ラ・マーガとの日々を描いたコルタサルの名高い長編小説『石蹴り遊び』(集英社)をほうふつとさせる。

コルタサルは一九五〇年代のはじめに、ブエノスアイレスからパリに移り住み、後半生をこの街で暮らした。その折々に密やかで、ナイーブといってよい声で小さな作品をつづった。それはアルゼンチンのさまざまな都市を転々としていた時代からの習わしだった。だからある意味では先のアウロラ・ベルナルデスがいうように、「コルタサルの最良の伝記は、彼の詩の中にある」ともいえるのである。
「北海道新聞」2005.12.27

2007年3月4日日曜日

Manuel Puig

■アルゼンチンの作家マヌエル・プイグが来日したのは一九九〇年で、その年に突如として亡くなったのだから、もうかれこれ十五年以上が過ぎたことになる。来日した折りには長編小説『蜘蛛女のキス』や『赤い唇』などですでに世界的な作家になっていたが、死後もその評価は高まるばかりである。とりわけ母国アルゼンチンでの再評価がいちじるしい。かつては、その斬新さが通俗的だと見下され、ホモセクシュアルだったこともたたって、冷遇された時期が長くつづいたからだ。いまでは、ボルヘスの呪縛からアルゼンチン文学を解き放ったとさえ讃えられる。そしてその延長線上にこのほど、ブエノスアイレスの出版社から書簡集二巻本が刊行されたのである。

『親愛なる家族へ』と題されたこの書簡集には、文字通り家族(父親、母親そして弟)に宛てた四百通を越える手紙が収録されている。先に出た第一巻では、一九五六年から一九六二年までの百七十二通が収められ、「ヨーロッパからの手紙」という副題がつけられている。映画監督をめざしてローマの映画実験センターへ旅立った二十代後半の若きプイグの日々がそこにある。そして第二巻の「アメリカ大陸からの手紙――ニューヨーク、リオ」では、晩年近くまでの、その後の二十年間の二百三十五通が収録されている。こちらの二十年のあいだに、プイグは映画から脚本へ、そして小説というジャンルに行き着き、会話やモノローグを主体にした独特な作風を見出すことになるである。

「アルゼンチン人の嫉妬深さのせいか、邪悪さのせいか知らないけれど、ぼくは完璧に無視され、だれも作品を取りあげてくれない」とプイグは一九六六年四月の手紙で家族に嘆く。ニューヨーク、メキシコ市、リオデジャネイロとずっと異国で暮らさなければならなかったのは、母国での迫害からのがれるためだったといわれている。だが、時代は移り変わり、事態は一変した。「若い世代となら理解しあえると思うんだ」とも書いたが、この予言は当たったようだ。
「北海道新聞」2007-2-6

2007年2月28日水曜日

Alfredo Bryce Echenique

■ペルーの小説家ブライス=エチェニケの回想録がこのほど(2005年)リマの出版社から刊行された。近くスペインの大手の出版社からも出る予定だ。

「パラカスでジミーと」や「幾たびもペドロ」などの邦訳のあるエチェニケだが、三十数年間のヨーロッパ生活のあと一九九〇年代のはじめにペルーに帰国した。最新作では帰国以後の日常生活やショッキングな体験についてつづっている。分厚い小説を書くエチェニケだが、この回想録も六百ページを超える。じつは一九九三年に『すみません、生きてもいいですか』という回想録を出しており、今回の『すみません、感じてもいいですか』はいわばその続編である。

タイトルからも想像されるように、エチェニケの文章は、ユーモラスで自虐的である。笑いを誘い、語り手を戯画化するのだ。その小説には、しばしば作者自身を思わせる主人公が登場するが、これについて、当人は、小説を書くと、あまりにも自伝的だといわれ、回想録を書くと、こんどはあまりにも小説的だといわれる、と笑う。要するに、エチェニケの作風はジャンルが違っても変わらず、実体験を語りながらも、フィクションと見分けがつかないものになるのだ。

ところで今回の『すみません、感じてもいいですか』(Permiso para sentir)では、ペルー帰国後に遭遇したさまざまな不愉快な事件や暴力沙汰、友人知人とのあつれきなどにも言及しており、連続的に起こったそれらが今でこそ饒舌な文体のままに語られるのだが、当時のインタビューでは、青ざめ、疲れ切った表情を浮かべていたのが思いだされる。祖国に戻ったエチェニケはけっきょく馴染むことができずに、現在も精神の安定をはかるために、ペルーとヨーロッパをしきりに往復している。悲哀もまたエチェニケの作品の特徴である。
「北海道新聞」2005.7.26

2007年2月22日木曜日

Mario Vargas Llosa

■夏の間(2005年)ひと月ほどスペイン北部の町ですごした。毎朝、新聞を買いに通った雑貨屋には売れ筋の本を並べたコーナーがあり、そこにペルーの作家マリオ・バルガス・リョサの新刊が置かれていた。題名は『不可能の誘惑』で、内扉には――ビクトル・ユゴーと『レ・ミゼラブル』――とある。要するにフランスの文豪をめぐる評論なのだ。

専門書に近い本が、地方の雑貨屋にも並ぶほどの売れ筋なのは、いささか不思議な感じもするが、バルガス・リョサは、スペイン語圏で圧倒的な人気をほこる作家である。一群の若者たちの過激な日々を描いた出世作『都会と犬ども』(1963)はいまも新しく版を重ねているし、中米の独裁者の暗殺事件をあつかった『山羊の宴』(2000)は世界的なベストセラーになり、映画化の完成も間近いそうだ。

勤勉なリョサは、これまで小説のほかに、数多くの評論も書いてきたが、そのなかでとりわけマルケスやフロベール、あるいはアルゲダスなどの作家論が光る。今回の『不可能の誘惑』は、いわばこの系列に属する作品である。

「私はこの二年間というもの、ひたすらビクトル・ユゴーの著作や彼の生きた時代について考えつづけてきた」と序文に書いてあるとおり、膨大な資料を読み漁り、オクスフォード大学に招かれてふた月ほどこのテーマで講義もおこなった。だがユゴーがいったいどういう人間だったのか、けっきょくのところ永遠にわからないだろうということだけがわかったと告白している。

とはいえ、リョサはやはり作家としての体験や鋭い嗅覚をたよりに、『レ・ミゼラブル』の行間に潜むユゴーを捕らえ、その野望やいかがわしさを随所で暴いていく。リョサのいうユゴーの「野望」とは、神に代わって完璧なリアリティのある宇宙を作品において実現するという一途な欲求だ。むろんこれはデビュー当初からリョサ自身が抱きつづけてきた野望でもある。となると、ユゴーを論じながら、今回も自身の文学について語っているといえなくもないか。
「毎日新聞」2005-10-28

2007年2月17日土曜日

Rosario Tijeras

■昨年(2003年)コロンビアへ行ってきた友人がこの本の原作を届けてくれた。やはり評判どおりのおもしろさで一気に読まされた。ヒロインは美貌の殺し屋であり、一風変わったラブストーリーといえなくもないが、ロマンチックな気分に浸れるわけではない。背後にコロンビアの悲惨な現実があるからだ。

誘拐やゲリラ、あるいは麻薬カルテルで怖い国というイメージが定着してしまったコロンビアだが、むろんそんな恐怖に満ちた日常生活ばかりではあるまい。とはいえ、著者のホルヘ・フランコもあるインタビューで、「この国で誘拐されたり殺されたりするよりは、米国へ行って皿洗いでもしたほうがましかもしれない」と語っているほどだ。

『ロサリオの鋏』の舞台は、麻薬カルテルで悪名をはせた都市メデジンだ。そのスラム街の出身であるヒロインのロサリオ・ティへーラスがそれなりの暮らしを送っているのは、マフィアのために仕事をしている「殺し屋」だからだ。ニックネームのティへーラスは、スペイン語で鋏のことで、彼女の武器と官能を暗示する。ちなみにロサリオのほうは、一般的な名前だが、宗教的な響きがあり、祈りや哀しみを連想させる。

作品はその女主人公が銃弾を浴びる場面からはじまる。冒頭の一文は、しばしば引用され、かなり有名になった――「キスの最中に、至近距離から撃たれ銃弾をまともにくらったロサリオは、恋の痛みと死の痛みとをとりちがえてしまった」。そしてすぐあとに彼女が口にするせりふは、「体じゅうに電流が流れたの。キスのせいだと思ったのに……」

死とエロス、暴力とユーモアをないまぜにしたこうした語り口に、ときおりラテンアメリカ的といってもよい、やや過剰なセンチメンタリズムが加わる。その配合の妙にこの作品の成功と大衆的な人気の秘密があろう。スペイン語圏で三十万部売れたそうだ。

場面の展開はスピーディで、会話のテンポも小気味よい。日本語訳も一気に読まされたが、読んだあと、映画を見たような気分を味わった。良きにつけ悪しきにつけこれがホルヘ・フランコのスタイルである。
「日本経済新聞」2004-2-15

2007年2月16日金曜日

Pablo Neruda

■今年(2004年)は、チリのノーベル賞詩人パブロ・ネルーダの生誕百周年にあたる。スペインやポルトガル、ドイツ、エクアドルなど、さまざまな国でさまざまな催し物が準備されている。むろん故国のチリでも朗読会や音楽会、写真展や絵画展などが開催される。33軒のレストランがネルーダにちなんだ料理を用意するという企画も決まったそうだ。

69歳で亡くなったネルーダだが、生前はでっぷりと太った美食家で、ノーベル賞を受賞したときはフランス駐在大使だった。にぎやかなパーティが好きで、ワインの目利きでもあった。

もっとも若いころは、自作の朗読会などで張りのある低音を響かせて、詰めかけた若い女性フアンをうっとりさせたらしい。そうした折りの十八番【おはこ】は、むろん『二十の愛の詩と一つの絶望の歌』であった。20歳のときに発表したこの愛と官能の詩集は、いまも新しい世代に読み継がれ、いくつもの版が出まわっている。

そういえば先日、ペルーの作家バルガスリョサが、イギリスBBCのラジオ番組で、母親が寝室に置いていたこの詩集を、「子どもが読んではいけません」と厳しく言い渡されたけれど、母親の目を盗んでこっそり読んだのだと語っていた。

そのリョサは後年、太平洋の荒波が打ち寄せるイスラ・ネグラのネルーダ邸に招かれた。詩人はここで船長の帽子を被り、ラッパを吹き鳴らし、魚の絵柄をあしらった青い旗を棹に掲げて、多くのゲストに美味な料理をふるまった。

晩年のネルーダは、目に触れるものすべて、自在に詩に歌った。玉ねぎやレモン、ワインやパンも彼の詩心をそそった。それらを称える作品は『基本的な頌歌(オード)』に収められている。チリの33軒のレストランも、それらの頌歌に思いを馳せながら献立を考えることになるだろう。――パンよ おまえは/小麦粉と/水とでこねられて/火に焼かれて/脹【ふく】れあがる/重苦しそうと思えば 軽やかになり/平【ひら】たいと思えば 丸くなり/おまえはまるで/母親の/お腹【なか】の/まねをする……「パンへのオード」(大島博光訳)
「朝日新聞」2004-7-26

2007年2月15日木曜日

Alonso Cueto

■三月の半ばに二週間ほどペルーのリマに滞在した(2006)。ホテルの近くに大きな本屋があり、アロンソ・クエト(一九五四ー )の著作を何冊か買い集めた。ペルー文学のコーナーに、クエトの長編小説や短編集、戯曲、コラム集などが十冊以上並んでいたので、当地でそれなりの人気作家であることが知れた。だがペルー以外では、ついこのあいだまで、ほとんど無名であった。このあいだまでというのは、スペインの出版社が出している有力な文学賞のひとつ、エラルデ賞を先だって受賞したばかりだからである。今後は大手の出版社からつぎつぎと作品が刊行され、ペルーのみならずスペイン語圏全体で読まれるようになっていくにちがいない。

リマ滞在中に本屋で手に入れたクエトの著作をさっそく読んでみたが、そこに描きだされている風景は、まさしく目の前のリマの風景そのものであった。街が砂漠の中にまで際限なく広がり、モダンな高層ビルと崩れかかる手作りのバラックが同じ視野の中に同等の存在感をもって立ち並ぶ。そして旧市街では、植民地時代のバルコニーが美しくライトアップされ、歴史と退廃、活気と喧噪が渦を巻く。狭い通りにはアンデスの先住民や中国人、白人や黒人や混血がひしめきあい、路地ごとに汗と土と油のにおいが交錯する。そんなリマは、「テンションが高く、小説家にとっては物語の宝庫である」とクエトはいう。

エラルデ賞を受賞した『青い時間』では、有能な若い弁護士が、軍人だった父親の過去の行状を明らかにしていく。そしてここでも等身大のリマが描きだされる。だが、クエトのすぐれたところは、そんなエネルギーに満ちた「現在」のリマには、一九八〇年代から九〇年代のおぞましい「過去」がなお疼【うず】いており、あとの世代であれ、その負の遺産から目をそらすことなく、なすべきことは誠実になさねばならないと指摘することだろう。――一九八〇年代には残忍なゲリラ組織がアンデスに跋扈【ばっこ】し、それを掃討する政府軍も多くの無辜【むこ】の民を蹂躙した。ペルー日本大使公邸占拠事件もあり、われわれにとっても無縁な過去ではない
「北海道新聞」2006-3-28

2007年2月14日水曜日

Antonio Skarmeta

■スペインのプラネタ賞は今年で52回目をかぞえる。賞金はノーベル文学賞につぐ高額で、60万1千ユーロ(約8000万円)の大盤ぶるまいである。

この懸賞小説には、世界中から500点を超える応募がある。ノーベル賞やセルバンテス賞を受賞したほどの高名な作家も匿名で応募してくる。受賞者リストには彼らの名前が並んでいる。出版社が裏で手を回しているといううわさもときおり流れるが。

今年度の受賞作は、アントニオ・スカルメタ(1940ー )の『ビクトリアのダンス』に決まった。スカルメタはピノチェトの軍政時代に、長くドイツで亡命生活を送ったチリの作家である。

日本では、数年前に話題を呼んだ映画「イル・ポスティーノ」の原作者として記憶されているかもしれない。チリのノーベル賞詩人ネルーダと、彼のもとへ自転車に乗って郵便物をとどける若者との交流を描いた作品だ。木訥(ぼくとつ)な郵便配達人を、イタリアの名優、故マッシモ・トロイージが好演した。

今回の受賞作では、ピノチェト将軍が去ったあとのチリが舞台だ。年老いた大泥棒と、社会に不満と苛立ちをつのらせる若い男女の友情が、ユーモアと詩情を織りまぜて描きだされる。

受賞式の折りの記者会見でスカルメタは、「チリには、苦痛の遺産を背負わされた若者たちがいる。彼らはその苦痛をのりこえようと懸命だ」と語っていた。軍政時代の傷が思わぬところでいまも疼(うず)いているということだろう。

1960年代に華々しくデビューしながらも、これまでマルケスやバルガスリョサら、《ブーム》の作家たちの陰に隠れてきたスカルメタだ。プラネタ賞受賞で名実ともにベストセラー作家の仲間入りを果たすことになる。『ビクトリアのダンス』の初版は21万部だという。「ビクトリアのダンス」はスペイン語で「勝利のダンス」という意味でもある。
「朝日新聞」2003-12-25

Pedro Páramo

■ラテンアメリカ文学の最もすぐれた作品のひとつとされる『ペドロ・パラモ』がメキシコで刊行されたのは、今からちょうど五十年前である。そして作者のフアン・ルルフォが亡くなってからそろそろ二十年の歳月が過ぎようとしている。メキシコではこの節目に合わせるように、『ペドロ・パラモ』をめぐるさまざまな著作があいついで発表されている。当時の批評家たちがこの小説をどのように受けとめたかを綿密に追った研究「『ペドロ・パラモ』初期の受容――一九五五~一九六三」もそうした一冊である。

この本のページを繰ると、ルルフォの小説がかならずしも最初からすんなりと受け入れられたわけではないことがわかる。物語の断片化や、異なった時間と空間を行きつ戻りつしながら死者たちの世界を編み上げるその手法が、むしろ奇異で未熟なものとして受けとめられたようだ。もっとも年を追うごとに評価は逆転し、やがて海外でも絶讃される。一九五八年にドイツ語訳、翌年にフランス語訳や英訳が完成した。

とはいえ、読者の期待に反してルルフォは、その後、小説を書かなかった。亡くなるまでの三十年間はひたすら沈黙を守った。最晩年の短いエッセイでは、『ペドロ・パラモ』の初版二千部を売り切るのに四年かかったと回想し、清書した原稿をさらに三回書き直したと記している。その作業を通じて、三百枚あった原稿が半分に圧縮された。

じつはそのタイプライター原稿が、最近、出版社の倉庫でみつかった。また決定稿から削られた断片のいくつかもルルフォの部屋から出てきた。こちらは数年前に『ルルフォのノート』という本のなかに収録された。

というわけで、半世紀たったところでそれらの資料をもとに、『ペドロ・パラモ』ができあがっていった過程がつまびらかにされつつある。ペドロ・パラモという地方ボスの栄枯と盛衰、夢と挫折、その背後に潜む「宿命や業の見えない網の目」をみごとに浮かび上がらせた手だてが、はたして偶然の産物だったのか、それともやはりルルフォの飽くなき推敲のたまものだったのか、明らかになる日も間近いか。
「北海道新聞」2005-5-17

2007年2月12日月曜日

Diamantes y pedernales

■この短編集は、二年ほど前に訳した『アルゲダス短編集』の続編である。アルゲダスがその後半生に書いた短編のほぼ全作品をこの一冊に集めた。それらの物語の舞台は、たいがいペルーのアンデスだ。先住民のインディオたちと暮らした作者の少年時代の日々を描いているのである。 

表題作の「ダイヤモンドと火打ち石」はじつは、アルゲダスにとって十数年ぶりの小説であった。長いスランプを経て再び勢いを得たアルゲダスは、つぎつぎと力作を発表していく。そのいくつかを今回この短編集に収録することができた。なかでも、異形のダンサック(踊り手)の死と再生の舞を描いた「ラス・ニーティの最期」は圧巻だ。光と闇が交錯する空間での息も絶え絶えの舞は、自らの死を選ぶ晩年のアルゲダスの苦闘さえも予兆するかのようだ。
「東京新聞」2005-7-14

Che Guevara

■「写真家エルネスト・チェ・ゲバラ」と題された写真展がイタリアで催されている。メキシコ、スペイン、ドイツと巡回してきた写真展であるが、キューバ革命の英雄の意外な側面を披露して、話題を呼んでいる。なにしろ、ゲバラが1950年代半ば、メキシコで一時期、アルゼンチンの通信社のカメラマンとして仕事をしていたことはあまり知られていないのだから。 

そればかりではない。キューバの山中で、ゲリラ兵士としてカストロとともに戦っていたときもカメラを持ち歩いていたし、革命成立後、来日した折に訪れた広島で自ら撮った写真も残っているのである。 

写真展では、そうした折々の作品が二百枚あまり展示されており、スペイン人の専門家が数年がかりで調査、蒐集したものだという。むろんゲバラの遺族やキューバのチェ・ゲバラ研究センターなどの協力も大きく寄与している。 

写真の一部は、これまで写真展が開催された国の新聞や雑誌でも紹介されているが、ゲバラがメキシコで取材したスポーツ大会のものでは、選手が棒高跳びのバーを超える劇的な一瞬や、表彰式でのメダリストのユーモラスなポーズも確実に捉えており、なるほどプロらしい技量を感じさせる。 

またコレクションのなかには、映画の一場面でようで、どこか郷愁を誘う海辺の写真もある。――波の砕け散る砂浜で、背広姿の中年の男と、腰に手をあてた婦人がたたずんでおり、その遠くを大型船が通り過ぎていく……。 

とはいえ、やはり「タンザニア1965年」というキャプションのついたセルフポートレートが否応なくこちらの視線を引きつける。ひげも長髪も落としたランニングシャツ姿のゲバラは、机の上の書類の山の向こうから頭だけをこちらに向け、どこか途方に暮れている様子である。画面全体も傾き、すべてが滑っていくような不安感を漂わせる。ゲバラがボリビアのジャングルで捕らえられ、処刑されるのはその2年後である。
「朝日新聞」2004-10-14

Juan Carlos Onetti

■ウルグアイの作家オネッティ(一九〇八~一九九四)が亡くなってからはや11年が過ぎた。亡命先のスペインで長く暮らし、そこで亡くなったが、このほどその遺品の一部がウルグアイに里帰りをし、モンテビデオのスペイン文化センターで展示されている(2005年5月のこと)。

オネッティが一九七〇年代の半ばに、スペインへ逃れなければならなかったいきさつは、今も語りぐさになっている。とある文学賞の審査員だった彼は、受賞作に「猥褻な作品」を選んだとして軍事政権に逮捕され、亡命をよぎなくされたのだった。

以来20年近くスペインのマドリードにとどまった。軍事政権の崩壊後のインタビューで、ウルグアイに戻りたくないかと聞かれ、「戻りたくないな。思い出や人びとは懐かしいけれど、あれはもう過去のことで、私も年とってしまった」と答えていた。

今回、帰還を果たしたのは、手書きの原稿や使い込まれたノート、マドリードの寝室を飾った絵やお気に入りの彫像などだ。亡命する前に使っていた机もどこからか出てきたようで、その上にお馴染みの太い黒縁の眼鏡が置かれている。それを見て、オネッティの広い額や長い顔、タバコの煙と苦虫を噛み潰したようなその口もとを思い浮かべる見学者は少なくあるまい。辛辣、無愛想、厭世家で通っていたオネッティだ。

その代表作のうち『井戸』(一九三九)と『はかない人生』(一九五〇)は、日本語で読むことができる。空気のよどんだ薄暗い部屋で夢想にふける虚無的な男たち。彼らの夢想する世界は、精緻で強固だ。そしてやがて強力な磁力を発して、その世界が自律的に動きはじめるのだ。

オネッティは今なお新しい熱烈な愛読者を獲得している。展示会の様子を伝えるホームページは、ドイツ語訳の全集が出はじめたことも伝えている。そういえばスペインでも近く、3巻本の全集が刊行される予定だ。「朝日新聞」2005-5-31

Guillermo Cabrera Infante

■2月下旬にロンドンで亡くなったキューバの亡命作家カブレラ=インファンテ(1929~2005)は、スペイン黄金世紀の巨匠ケベードの風貌にどこか似ていた。しかめっ面に古風なまるい眼鏡、それに短いしゃれたあごひげ。 

ケベードと同じく、ひとつの文のなかに、幾層もの意味をしのばせるのが得意だった。そしてエッセイなどでは、笑いを誘いつつ、鋭く対象に切り込み、言葉の軽業師と呼ばれた。 

カストロ政権を批判し、ロンドンにのがれたのは一九六五年。早い時点でのキューバ革命からの離脱だった。 

亡命後にスペインで刊行された『三匹の悲しい虎』(1967)により一躍脚光を浴び、マルケス、リョサ、コルタサルらとラテンアメリカ文学の全盛時を築いた。1997年にはスペイン語圏で最も権威のある文学賞セルバンテス賞を受けている。 

カブレラ=インファンテの小説の舞台は、たいがい革命前のハバナだった。邦訳のある2つの作品、短編集『平和のときも戦いのときも』(1960)も、自伝的長編『亡き王子のためのハバーナ』(1979)も例外ではない。ちなみに「亡き王子~」は、ラヴェルの曲「亡き王女のためのパヴァーヌ」のもじりで、「王子」には、カブレラ=インファンテ自身の名前も重ねられている(なにしろ王子は、スペイン語でインファンテという)。 

追憶のなかの折々のハバナは、官能と活気にあふれ、きらびやかな夜の街にねっとりと音楽が響きわたり、交わされる言葉がしなやかに身をくねらせる。そしてふっともの悲しげな郷愁が漂うのである。 「彼の描いたキューバはどこにも存在しないのです」とカブレラ=インファンテの妻が、作家の亡くなった日に語っていた。遺体は荼毘に付され、キューバへの帰還の日をさらに待ち続けるのだそうだ。
「朝日新聞」2005-4-12

La tía Julia y el escribidor

■これはラテンアメリカ文学の熱気がまだ冷めやらぬ一九七〇年代の後半に刊行され、バルガス=リョサ自身が私生活さえ赤裸々に盛り込みながら、作家という人種のパロディ、その過剰さと悲哀をこっけいな筆致で描きだしてみせた話題作である。 

当時のリョサは、三十代の半ばまでに『都会と犬ども』『緑の家』『ラ・カテドラルでの対話』(いずれも邦訳がある)といった重厚な大作を発表し、すでに世界的な名声を得ていた。確固たる地位を築いた自信もあろうか、それまでの手法と打ってかわって、軽やかな文章や笑い、娯楽的な要素を駆使して、新しい文学の地平に果敢に挑んでいた。『フリアとシナリオライター』はそのころの大きな成果である。

作品の冒頭近くで、〝僕〟の口さがない伯母のひとりが眉をひそめながらこういう――「フリアったらリマへ来て最初の一週間に、もう四人の男と出かけているのよ。しかも一人は女房持ち。まったく、バツイチ女は手がつけられないわ」。 

じつはくだんのフリアも、僕の叔母のひとりであり、物語はこのあと、隣国ボリビアから出戻ってきた一まわり年上の美貌の彼女と、ラジオ局でアルバイトをする作家志望の十八歳の僕との、いささかどたばた的な恋愛をめぐって展開するのである。 

しかも僕の名前は、バルガス=リョサであり、フリア叔母さんは、実人生でも最初の妻となったフリアその人だというのだから、現実とフィクションが分かちがたいものとして仕組まれており、これも読者を煙に巻くためのリョサ一流の計算だろう。 

ところで、タイトルのシナリオライターは、〝僕〝がラジオ局で知り合うことになるあこがれの〝作家〟だ。さまざまな人物に変装して、ラジオ局の小部屋で一心不乱にタイプライターに向かう風変わりな男だが、現実とフィクションを絶え間なく行き来するそのなりわいの崇高さと猥雑さと危なっかしさは、むろん今ではリョサ自身のものでもある。
「京都新聞」2004-6-27