2012年11月6日火曜日

現代ラテンアメリカ文学併走(安藤哲行著)




■ラテンアメリカ文学のここ数十年の歩みを知る上で絶好の書が登場した。バルガス=リョサが『都会と犬ども』を発表し、世界的なラテンアメリカ文学の《ブーム》が巻き起こってからそろそろ半世紀が過ぎようとしている。リョサは二〇一〇年にノーベル賞を受賞したが、ある意味ではひとつの時代の区切りをなすできごとだったとも言えよう。本書は、そうした輝かしい時代を視野におさめながら、ブームの時代が過ぎ去った今日のラテンアメリカ文学の状況を浮かび上がらせる。サブタイトルの「ブームからポストボラーニョまで」は、まさしくこの本が射程におさめるフィールドである。

 第1部の「ラテンアメリカ文学の過去・現在・未来」では、3つの評論が並び、メキシコとアルゼンチンの文学の現況を展望し、ラテンアメリカ文学の全体にも目配りする。メキシコにはルルフォやフエンテス、アルゼンチンにはボルヘスやコルタサルといった日本でもよく知られた作家たちがいるけれど、後続の世代にとって彼らの先に新たな文学の地平を切り開くことは、そう容易なことではなかったようだ。彼らの苦闘や善戦ぶりは第2部において詳しい。

 第2部のタイトルは、書名にも冠された「現代ラテンアメリカ文学併走」。分量的にも本書の中核をなしている。「ユリイカ」に十数年にわたって連載された文章が主で、ページを繰ると、大家と呼ばれるようになった馴染みの作家たち(ボルヘス、フエンテス、マルケス、ドノソ、コルタサル、サバト、プイグ、エチェニケ、アレナスなど)に代わって、新しい世代が一九九〇年代の終わり頃からしだいに勢いづいていくのがわかる。アルゼンチンのアイラ、メキシコのボルピやパディージャ、チリのボラーニョ、コロンビアのボテロやバジェホなどなど…。こうして名前を並べただけでは、何の興も湧かないが、著者の文章を読むと、ひとりひとりが非常に魅力的な書き手であることや、ラテンアメリカ文学にも新しい時代が到来していることが実によく伝わってくるのだ。

 それぞれの作品のあらすじが巧みにたどられ、注目すべき点や、どこに新しさが潜んでいるのかが屈託のない自在な語り口で語られている。また原書からの引用も随所に織り込まれ、ストーリーだけでなく、それぞれの作家の文体の質感や味わいも伝わってきて、ときにはすぐにもその作品を丸ごと読みたくなってしまう。現に私も何冊かさっそく注文してしまったほどだ。これらのラテンアメリカ文学を紹介する文章は、無味乾燥な情報の羅列ではなく、読む者を楽しませ、揺り動かすパワーを秘めているのだ。

 第3部は「ラテンアメリカ文学のさまざまな貌(かお)」で、ここではふたつのテーマがじっくり掘り下げられる。ブーム時代の代表作のひとつ、ムヒカ=ライネスの長編『ボマルツォ』と、カトリックとマチスモの頑強な社会で、いまなお人々の顰蹙(ひんしゅく)を買うゲイの問題だ。ゲイをあつかった小説がつぎつぎと書かれ、ラテンアメリカでも年ごとにその系譜が豊かなものになっている。そうしてこれらの評論でも、物語のてんまつを面白く語る力が発揮され、読者を飽きさせない。ある意味ではこの本のすべてのページがその巧みな語りの力に支えられており、それがこの本を単なるラテンアメリカ文学の案内書以上のものにしているのでる。
「週間読書人」2012-01-13

2012年9月23日日曜日

マトゥーテ/Ana María Matute

■セルバンテス賞はスペイン語圏で最高の文学賞であるが、今年はスペインの女性作家アナ・マリア・マトゥーテが受賞した。日本ではほとんど翻訳紹介されていない作家だが、語学テキストでよくその作品を見かける。透明感のある平易な文体でつづられた、一群の少年たちが登場するどこか幻想的で悲哀を含んだ短編に定評がある。その端正な文章を読んでスペイン語を学んだ学生は少なくないはずである。


 今回の受賞に合わせるかのように、それらの短編はつい先だって『月の扉――全短編』というタイトルのもとに一冊の分厚い本に編まれた。八百ページを優に超える。その折りのインタビューでマトゥーテは、「最初の短編から現在にいたるまで、私は人びとの失意と喪失感というものを描いてきました」と述べている。

 もっともマトゥーテは、短編だけでなく、いくつかの重要な長編も発表しており、大家族の兄弟たちの葛藤と離散を描いたデビュー作『アベル家の人々』(1948)や、内戦後の傷ついたスペインを浮かび上がらせた代表作『死んだ子供たち』(1958)、あるいは長い沈黙のあとに上梓した架空の王国の物語『忘れられた王グドゥ』(1996)などの作品は、内外で高い評価を得て、ナダル文学賞、プラネタ賞、国民文学賞、批評家賞など、スペインの名だたる文学賞をつぎつぎと獲得してきた。

 あとはセルバンテス賞だけと言われつづけ、本人もそれを気にしていたようで、発表前のインタビューでは「受賞できたらうれしさのあまりそこらじゅうを飛び跳ねるわ。もちろん心の中でね。この松葉杖じゃむりですもの」と冗談まじりに語っていた。マトゥーテはバルセロナ生まれで八十五歳。朝はゆっくり起きて、3時か4時の遅い昼食まで書きつづけているという。「人生は不思議なもの。物語を書くこともそれに似てどこか神秘的な営みだわ」と受賞後に述べていた。
「北海道新聞」2010-12-14

バルガス=リョサ /Mario Vargas Llosa

■バルガス=リョサは目下プリンストン大学の客員教授としてニューヨークに滞在中である。ノーベル賞受賞を知らせる電話は、まだ夜が明け切らぬうちにかかってきたようだが、リョサはすでに起床し、いつものように仕事にとりかかっていたという。途方もなく勤勉な作家だが、若い頃に心酔したフロベールの日記を読んで身につけた生き方だと言う。

 リョサは一九六〇年代の前半に『都会と犬ども』で華々しく登場し、『緑の家』『ラ・カテドラルでの対話』などの斬新な野心作をつぎつぎに発表して、『百年の孤独』のガルシア=マルケスらとともにラテンアメリカ文学の世界的なブームを巻き起こした。その旺盛な創作欲は七十四歳の現在も少しも衰えをみせない。先だってウルグアイの巨匠オネッティの作家論『フィクションへの旅』を上梓したが、来月早々に、コンゴに足を運んで取材した次の長編『ケルト人の夢』を刊行の予定である。

 一九八二年にガルシア=マルケスがノーベル賞を受賞すると、つぎはむろんバルガス=リョサだとずっと期待されてきたが、ようやく二十八年後に両雄が肩を並べることになった。ペルーのアラン・ガルシア大統領は受賞の一報に、われわれは青春時代からこの日がくるのをずっと待ち望んできた、と述べたが、これはリョサの愛読者の偽らざる心境だろう。

バルガス=リョサの初来日はいまから三十年ほど前、すでに世界的な作家として知られ、国際ペンクラブ会長の要職にあった。作家の大江健三郎や文化人類学者の山口昌男と対談し、学生だった筆者は四苦八苦しながらその通訳をつとめた。リョサは料亭の掘り炬燵に腰かけ、終始にこやかだったが、ストイックな厳格さ、知性への圧倒的な信頼、相手を容易に懐に寄せつけない雰囲気を漂わせていた。

二度目は、アルベルト・フジモリと大統領選を戦っていたさなかで、翻訳した『都会と犬ども』を見せると、ぱらぱらとめくって「さっぱりわからないけれど大したものだ」といって肩を叩いてくれた。しかし、自由と民主主義の旗を高く掲げ、優位に立っていたリョサは、その後みるみるうちに庶民的なイメージのフジモリに差を詰められ、やがて追い抜かれた。選挙のあとパリに飛んで、カフェの前でしょんぼりと佇んでいたリョサの写真が忘れがたい。

とはいえ大統領選に破れたおかげで作家としてのリョサは、復活を遂げ、ドミニカ共和国の独裁者トルヒーヨの晩年を描いた『山羊の宴』や画家ポール・ゴーギャンとその祖母の見果てぬ夢を追った『楽園への道』など、近年の数々の傑作が生み出されたのである。

その延長線での今回のノーベル賞だが、授賞理由は「権力の構造の見取り図を描き、個人の抵抗、反乱、敗北の姿を鋭く表現した」とある。デビュー作『都会と犬ども』で言えば、ペルーの縮図、あるいはラテンアメリカや世界の縮図としての士官学校を舞台に、暴力と狡猾さ、腕力とずるさがものをいう世界を現出させ、そこで詩人、ボア、ジャガー、あるいは奴隷とあだ名される一群の若者たちの「抵抗、反乱、敗北」のドラマをあざやかに描きだしてみせたのである。

四年前のインタビューでバルガス=リョサは、「ふと沈黙する作家がいるけれど、私は死ぬまで沈黙するつもりはない。座って銅像になってしまう人もいるけれど、私は最後まで走り続けるつもりだ」と語っている。その旺盛な創作意欲は受賞後も衰えることがあるまい。
「毎日新聞」2010-10-12

2010年11月28日日曜日

■Juan Rulfo

メキシコの作家フアン・ルルフォの写真展が、メキシコ市の鉄道ミュージアムで開催されている。一九五〇年代の半ばに撮影された62枚の写真が展示されており、ターミナル駅がまだ鄙びた都市の一画だったころの様子を写しだしている。煤けた家並みや、黒い煙をあげながら視界の奥に現れた蒸気機関車、あるいは緩やかにカーブを描きながらどこかへ消えていく無数の線路、どの一枚も美しく、そしてどこかもの悲しげだ。 写真家としてのルルフォに注目が集まるようになったのはここ十年ほどのことである。むろん彼の名声は、生前に発表した2つの文学作品、短編集『燃える平原』と長編『ペドロ・パラモ』によるものだが、ここにきてメキシコ国内で写真集が刊行され、今回のような写真展もあいついで開催されている。昨年はメキシコ南部の古い都市オアハカで写真展が催され、ルルフォが一九五〇年代の後半にここを訪れた折りの70枚の写真が展示された。先住民の暮らしやさまざまな建築物に注がれる独特な視線や確かな構図が評判を呼んだ。 そうした写真家としてのルルフォの研究は、まだはじまったばかりだが、1930年代の終わりに最初のカメラを手にし、3000枚を超える「作品」を残していることがわかっている。そしてどうやら短編を書き出したのとほぼ同じ時期に、何枚かの写真を雑誌に投稿していたようだ。 そういえば邦訳『ペドロ・パラモ』(岩波文庫)の表紙に使われている写真も、ルルフォ自身の手になるものだ。馬にまたがった男たちが、草の斜面に不意に現れた瞬間を捉えている。高く伸びた穂が揺れ、顔の見えない男たちはささ体を前傾してどこかへ急いでいる風だ。画面の半分以上を占める空も、重なりあう雲におおわれ、先行きの不穏な事態を予想させる。緊張感と不安をはらんだ画面は、やはりどこかルルフォの小説世界と響き合う…。

2010年8月4日水曜日

■ガボとフィデル――権力と絆

■原題は『ガボとフィデル――ある友情の風景』である。ガボは『百年の孤独』や『族長の秋』などで知られるコロンビアのノーベル賞作家ガルシア=マルケスの愛称。フィデルは、キューバの最高権力者として君臨してきた革命家フィデル・カストロ。二人が長年親交を結んできたことは広く知られており、軍服姿の大柄なフィデルと、小柄だががっしりした体つきのマルケスが並んで写っている写真は、これまで幾度も世界中の新聞や雑誌に掲載されてきた。

本書はその篤い友情の本質に迫ろうと、二人のさまざまな発言やインタビュー記事を引用しながら、一九七〇年代の半ばにはじまる親交の跡をたどる。またマルケスの周辺の人びとや、友人たちにも精力的に取材し、マルケスと権力者たちが強力に引き合う不思議さを解明しようとも試みる。「ラテンアメリカの大統領はみんなあいつの友だちになりたがっている。けれどあいつもまた大統領たちの友だちになりたいと思っているのさ」とマルケスの友人の一人が語る。

いずれにせよ、フィデルとマルケスの友情がつづいたこの三十年あまりは、キューバにとって波乱の時代であった。自由や人権をめぐるさまざまな問題が生じ、そのつど多くの知識人や文化人がそれぞれの立場を表明しながら、あるときはカストロ政権を擁護し、多くの場合は激しく非難してきた。本書ではそれらの「事件」を振り返りながら、マルケスの言動が検証されるが、けっきょく沈黙を守ることの多かったマルケスは、バルガス=リョサから「カストロの太鼓持ち」と揶揄され、スーザン・ソンタグから「彼の偉大な作家としての義務は、論戦に加わることだと思います、彼が語らないのを、私は許すことができません」と糾弾されるのである。

こうして革命家と作家の一途な友情は、本書ではしだいにマルケスにとって分の悪い展開になっていくわけだが、「年老いた孤独なカリブの独裁者」への理解と憧れが本来的にマルケスにあったからこそ、『百年の孤独』や『族長の秋』のような奥深い傑作が書けたのだともふと気づかされるのである。
「神戸新聞」2010-06-27

2010年6月20日日曜日

LAURA RESTREPO

■「サヨナラ」というタイトルにはいささか警戒したが、幸いなことにこれは東洋的なエキゾチズムが売り物の小説ではないのだ。

冒頭近く、川沿いの田舎町に、まだあどけなさの残る少女が、古ぼけたスーツケースを手に現れ、客待ちの車引きに「この町で一番の店」に連れて行ってと頼む――
《「そこで誰が働いてるか、知ってんのか?」と彼は訊いた。「町の女だぞ」
「知ってるわよ、そんなこと」
「つまり、すっごく悪い商売だぞ。ほんとうに行きたいのか?」
「決まってるでしょ」少女はためらわずに言い切った。「あたし、娼婦になるんだもん」》

横長の美しい目をした混血の少女は、やがて娼婦としての第一歩を踏みだし、石油の採掘現場で働く男たちが押し寄せるラ・カトゥンガの女王となる。源氏名は、「サヨナラ」。魅力的な目、東洋的な面立ち、なめらかな肌。男たちは彼女の虜となる。

むろんこれだけの話なら、たとえ警察や資本家の横暴、労働者や娼婦の悲惨の歴史が描きだされても、ごく平凡な小説に終わっただろう。しかしこの小説は、女性記者である語り手の「私」が、車引きや老女将、売春婦たちから集めまわった数多くのエピソードから構成されている。そして断章と断章が相互に影響し合って、サヨナラの数奇な物語を編み上げていくわけだが、ときおり証言者たちの話は微妙に食い違うのだ。

「娼婦にとって、男に惚れちまうほど大きな不幸はないよ」と知りながらも、その運命をたどることになるサヨナラだが、その行く末についても、異なる証言が並び、さらには語り手である女性記者自身にもまた別の「確信」があるというのだ。そしておそらくこの作品を読む者にも。

著者のラウラ・レストレーポはジャーナリスト出身の作家。スペイン語圏の国々で高い人気を誇っている。
「北海道新聞」2010-04-11


 

2010年4月18日日曜日

■ANGELES MASTRETTA

■スペインの有力紙「エル・パイス」の電子版を読んでいたら、片隅にメキシコの女性作家アンヘレス・マストレッタのブログ「自由港」へのリンクが張ってあることに気づいた。アクセスしてみると、もう一年半ほどつづいているブログで、最近はほとんど毎日のように更新されている。

日付をさかのぼって見ていくと、文字だけのブログだが、画像に出くわすこともある。三月十三日付けのブログでは、実弟がデザインした鮮やかなオレンジ色のメキシコ製スポーツ車が映っている。日々取りあげられる話題はさまざまで、きのうはキューバの反体制作家(エリセオ・アルベルト)の本の紹介、その前は、「矯正のためには女を叩いていいんだ」と大まじめに語られていた中東のある国のテレビ番組の話(「そいつ頭をスコップでぶちのめしたくなったわ」)。

話があちこちに飛ぶのがブログというものの特性かもしれないが、マストレッタ自身「私はおしゃべりな人たちに囲まれて暮らしている。思い出やとりとめのない話に興じる楽しみを知らない人は、私の家族や友人たち、ブログ仲間を理解できないと思うわ」と書いている。

ところでアンヘレス・マストレッタの小説は残念ながら日本語にまだ翻訳されていないが、大ベストセラーになった出世作「命を燃やして」は映画化され、昨年日本でも公開された。暴力と狡猾さを手だてに権力の中枢にのし上がっていく男の、一見「控えめで古風な妻」の物語である。男尊女卑の社会でヒロインは、マッチョな男たちを注意深く観察して、賢くしたたかな女性へと変貌を遂げていくのである。

その注意深い視線の片鱗は「自由港」でも垣間見ることができる。「私がサッカーが好きかどうかって? 九〇分もひとりで見られるほど好きではないわ。だけどサッカーを見ている男どもを見るのは楽しいわね」

2010年1月15日金曜日

■Vargas Llosa y Neruda

■南米チリのノーベル賞詩人パブロ・ネルーダは、じつに多様なものを蒐集した。揺籃(ようらん)期本と呼ばれる十五世紀頃の古書、船の舳先(へさき)を飾った木製の彫刻像、七つの海やパリの蚤(のみ)の市で手に入れた見事な巻き貝などなど…。一途(いちず)な情熱でそれらをひとつまたひとつと集めていったようだ。

とはいえ、巻き貝のコレクションはどんどん増え、しまいには棚や部屋からあふれ出してしまい、とうとうその大部分を母校のチリ大学に寄贈した。このほどそれらの貝殻のうち四百個ほどがスペインへ送られ、目下マドリードのセルバンテス文化センターで展示されている。潮騒の音が流れる空間で見学者たちは、さまざまな形や色の巻き貝を眺めながら、かつての所有者であった心豊かな海の詩人に思いを馳せるのである。

晩年のネルーダは、チリの首都サンチアゴから車で二時間ほどのところにある海辺の町イスラ・ネグラで過ごすことが多かったが、太平洋を望む海岸の小高いところに建つ家には、陸に乗り上げた船のおもむきがあったという。そこでときおり宴会が開かれ、美食家のネルーダは、若い作家や芸術家たちに美味な料理とワインをふるまった。ペルーの作家バルガス=リョサも若き日に招かれ、そこここに置かれた蒐集品の数々に感嘆の声をあげたひとりだ。木製の船首像や船の舵(かじ)や羅針盤、色とりどりの瓶や海洋図、マッチ棒でつくった帆船を内蔵したボトルなどなど、「まさしく詩的な空間だった」と述懐している。

天井が低く、ドア口が小ぶりな部屋もあり、船室にいるような心持ちにさせられた。そして詩人は、朝目覚めると、双眼鏡を手にとって、ベッドに入ったまま大海原を行き交う船を眺めた。またときには長く繊細な指で、巻き貝の表面をなで、その神秘的な美しさを愛(め)でた――カリフォルニアから/トゲだらけの骨貝を持ってきた/そのすき通ったトゲは蒸気に包まれ/トゲだらけの飾りは凍った薔薇のようだ/内側の口蓋はピンク色に燃え/肉の厚い花冠がやさしく影をおとしている。(松田忠徳訳)
「北海道新聞」2009-12-22

2009年11月18日水曜日

onetti

■今年は、南米ウルグアイの作家フアン・カルロス・オネッティ(一九〇九~一九九四)の生誕百年にあたる。オネッティは一九六〇年代にラテンアメリカ文学の世界的な隆盛を築いた作家のひとりである。その作品は時の試練をくぐり抜け、いまなお新しい読者を魅了してやまない。邦訳のある『井戸』や『はかない人生』など、主要な作品の新装版も出そろった。また折りよくペルーの著名な作家バルガス=リョサの新作『フィクションへの旅――オネッティの世界』が刊行され、オネッティをめぐる話題をさらに活気づかせている。

ところで独裁政権に祖国を追われたオネッティは、六十代半ばにスペインに移り住んだが、晩年の数年はほとんどベッドに横たわって過ごした。その様子を伝える写真を、ときおり新聞で見かけたが、たいがいタバコを片手に、少しだけ上体を起こして面白くなさそうに、だが、どこかいたずらっぽくカメラのレンズを見つめていた。

バルガス=リョサによれば、現代作家としてのオネッティの功績のひとつは、物語をつくり出すこと自体を小説の題材にしたことだ。登場してくる男女たちは、イマジネーションを頼りに、不満だらけの現実から新たな世界への「逃亡」をみごとにはかってみせるのだという。

そういえば、『井戸』や『はかない人生』でも主人公は、落伍者としての孤独や悲しみや挫折感を味わいながらも、ぎりぎりとところでその日常から脱出して、別の確固たる現実を空想しはじめる。文学の本質はまさにそこにあるのだとリョサは力説する。

ところで晩年ベッドに横たわり続けたオネッティだが、たぶんそれらの日々は彼にとってさほど退屈ではなかったろう。若い頃に書いた『井戸』にはすでに「それだけで充分幸せを満喫できると思った。あとは暗闇に向かって目を開き、適当な夢を見ればよかった」とある。
「北海道新聞」2009-10-20
 

2009年6月21日日曜日

JULIO CORTAZAR■PAPELES INESPERADOS

■亡くなってから二十五年になるアルゼンチンの作家フリオ・コルタサル。その人気はいまも世界的に根強く続いている。日本では昨年、短編集『愛しのグレンダ』が刊行され、文庫本の『悪魔の涎・追い求める男』も読み継がれている(共に岩波書店)。ユーチューブでは、「追い求める男」のモデルといわれる伝説のアルトサックス奏者チャーリー・パーカーの演奏をバックに、コルタサルの朗読を聞くことができる。長くフランスで暮らしたせいか、そのスペイン語は独特な抑揚で、なめらかに、そして淀みなく続くのである。

そんなコルタサルだが、つい先月(五月)、新たな作品がスペインとアルゼンチンで同時に出版され話題を呼んでいる。コルタサルの最初の妻、アウロラ・ベルナルデスがパリの家の古いタンスの中に見つけた大量の原稿である。引き出し一杯分の原稿が、『予期せぬ原稿』という五百ページほどの分厚い本となった。未発表の短編や詩や随想、あるいは『マヌエルの教科書』や『ルーカスと呼ばれた男』といった長編から省かれた断章、講演や序文の草稿などが並んでいる。その多様なありさまは、コラージュ風の構成を好んだコルタサルの作風を思い起こさせる。コルタサルの愛読者や研究者にとって、まさしく予期せぬプレゼントとなった。

ところで、この本の編纂も手がけたアウロラ・ベルナルデスは、コルタサルの遺言により著作権の単独相続人に指名され、この二十五年間、献身的にその著作の管理と保護にあたってきた。とりわけ数年前に編纂した三巻本の大ぶりな書簡集は多くの人を驚かせた。もともとは翻訳家で、フォークナーやサルトル、イタロ・カルヴィーノなどをスペイン語に翻訳してきた。来年で九十歳になるが、『予期せぬ原稿』の大きなポスターの前に立つ彼女の笑顔は、控えめで初々しい。若い頃のコルタサルとの共訳、エドガー・アラン・ポーの全短編は、名訳として名高い。
「北海道新聞」2009年6月

2009年3月14日土曜日

De Gabo a Mario

■一月末にスペインで『ガボとマリオ』という本が刊行され、話題を呼んでいる。ガボというのは、コロンビア出身のノーベル賞作家ガルシア=マルケスの愛称で、マリオは、ペルーの著名な作家バルガス=リョサのことである。

ラテンアメリカ文学の両雄と称せられるふたりの出会いから決別にいたるまでのさまざまなエピソードがつづられている。

一九七六年二月十二日、腕を広げてにこやかな笑顔で近づいてきたマルケスの顔面に、リョサはいきなり強烈なパンチを食らわせた。マルケスは試写室の絨毯の上にひっくり返った。

これはうわさとして今日まで伝わってきた話で、私も半信半疑でその話を聞いてきたが、昨年になって、メキシコの有力紙のスクープとしてそのときの写真が掲載された。

マルケスは左目のまわりが黒く腫れあがり、鼻のつけ根近くにも傷があった。

しかしながら、マリオがなぜガボを殴りつけたのか、その理由は誰にもわからない。そしてこの本を読んでもわからないのである。ふたりとも固い沈黙を守ってきたからだ。

リョサのその時のマルケスへの怒りはおそらく個人的なものだったろうけれど、キューバ革命やフィデル・カストロの評価をめぐって両者がしだいに疎遠になっていったことは確かだ。

それ以前のふたりは、とりわけ一九六〇年代後半のバルセロナでは、家族ぐるみで行き来し、周辺にはコルタサルやフエンテスやドノソといった作家たちがいた。またカルメン・バルセルスやカルロス・バラルといった名だたる出版人たちもいた。彼らによってやがてラテンアメリカの新しい小説群は世界に押し出されていく。

当時のガボとマリオについて語ることは、そのままラテンアメリカ文学の隆盛期の到来について語ることでもある。
「北海道新聞」2009-03-10

2009年1月25日日曜日

ジュノ・ディアス

■米国で2008年度のピューリッツァー賞(小説部門)に輝いたのは、ドミニカ共和国生まれのジュノ・ディアス。受賞作『オスカー・ワオの短くも凄まじい人生』は、英語の中にときおりスペイン語が混ざる独特の文体で書かれており、エネルギッシュでみずみずしい語り口が作品の魅力のひとつになっている。6歳のときにアメリカに移住したディアスだが、40歳になる現在もスペイン語を流暢に話す。

『オスカー・ワオの短くも凄まじい人生』の主人公は、やはりヒスパニックだが、どこにもいそうなオタク的な若者だ。でっぷりと肥え太り、テレビゲームやファンタジー小説に夢中で、心優しいのだけれど、女の子にはまるでもてない。表面的には、それが彼の最大の悩みである。家でごろごろしていると、姉に叱りとばされる。「髪を切ったらどうなのよ。その眼鏡もなんとかして。運動ぐらいしなさいよ。それからそのポルノ雑誌、捨ててちょうだい。いやらしいんだから。母さんだって目のやり場にこまってるじゃないの。これじゃあ、一生かかったって、女の子ひとりナンパできやしないわよ」

オスカー・ワオの孤独でどこかユーモラスな日常とともに、その母親や祖父たちの過去も描かれる。こちらの舞台は祖国のドミニカ。30年あまり君臨した独裁者トルヒーヨの時代と重なる。その意味では『オスカー・ワオ~』は、ラテンアメリカの作家たちが好んで描いてきた独裁者小説の系譜に連なる作品であるともいえる。現にバルガス・リョサも『山羊の宴』(2000年)で同じくトルヒーヨを主人公に取りあげている。

しかしながら、どうやらジュノ・ディアスにはそうした独裁者小説と一線を画したい思いがあったようだ。ディアスのトルヒーヨはなかなか姿を見せない。しかし確かにオスカー・ワオの不運な人生の根源に存在しているのである。「トルヒーヨという人物が提供する物語は、あまりにも強烈だからね。彼について書くとなると、知らぬ間にその神話化に手を貸すことなるんだ。リョサだってそうなったんだからね」とあるインタビューで答えている。

『オスカー・ワオの短くも凄まじい人生』のスペイン語版は、刊行されたばかりである。英語とスペイン語が交錯する文章は、すべてスペイン語だけになったが、幸いにもすぐれた翻訳で、語り口の鮮烈さはじゅうぶん味わえる。ラテンアメリカの文学にとっても特別な意味を持つ作品になっていくにちがいない。
「朝日新聞」2009-01-10

2008年12月14日日曜日

カルロス・フエンテス

■メキシコの著名な作家であるカルロス・フエンテスは、この十一日、八十歳の誕生日を迎えた。精悍な顔つきはあまり年齢を感じさせず、創作欲もなお旺盛だ。このほど五百ページ余りの大作「意志と富」を上梓した。

八十歳というのは、やはり特別な節目だろう。ニュースになり、世界中でイベントが企画される。メキシコでは、ノーベル賞作家ガルシア=マルケスが馳せ参じ、メキシコ国立自治大学では、研究者たちがフエンテスの文学について論じ合うことになっている。

折しも今年(2008年)は、フエンテスの出世作「大気澄みわたる土地」が世に出てから五十年目にあたる。それを記念して主人公の銅像がメキシコ市の一角に建つことになった。フエンテスの作品群にとっても、今年は特別な年なのである。

ところで、新作「意志と富」は、ある意味では「大気澄みわたる土地」の続編だと言える。なにしろ五十年後のメキシコがそこに描きだされるのだから。

「一九四〇年代の後半には、場末のキャバレーを夜中の二時に出ても、歩いて家に帰ることができた。いまでは、家からすぐ目と鼻の先の角でも、とても歩いていこうなんて思わないよ」とフエンテスは最近のインタビューで述べている。

「意志と富」では、夜の砂浜に転がる若者の頭部が語り手だ。「ぼくはメキシコで今年刎(は)ねられた一千番目の首だ。今週の五十番目、きょうの七番目の首だ」。

麻薬マフィアとの戦いは熾烈をきわめているようだ。今年だけでも死者はすでに四千人を超えた。このまま滅びるか、なんとか生き返るか、いまこの国はその瀬戸際に立っている、とフエンテスは言う。

八十歳の今も午前中は執筆に没頭する。「けっこう勤勉な性分でね。朝の八時から十二時まで机に向かうよ。この商売は、休むと書けなくなるもんでね」
「北海道新聞」2008-12-2

2008年11月24日月曜日

ラス・カサス

■ラス・カサスは16世紀に活躍したスペインのカトリック司祭である。ラテンアメリカの先住民(インディオ)に対する残虐非道なふるまいを激しく非難し、スペイン支配の不当性を訴えつづけた。中南米ではインディオの擁護者として称えられてきた。

この本では著者はそうしたラス・カサスの足跡を追う。生まれ故郷のセビージャや十七歳の時に大西洋を渡って最初に訪れたカリブ海のサント・ドミンゴ、従軍司祭として征服行に加わったキューバ、あるいは平和的な植民改宗事業を企てたクマナ(ベネズエラ)、ひと月だけ訪れたパナマ、たどり着けなかったペルー、司教として赴任したチアパス(メキシコ)などなどだ。

それらの現場に、当時であれ五百年後の今であれ実際に立つことで初めてわかることがいくつもあるようだ。じつはラス・カサスの研究は、日本でも大いに進められてきた。評伝はあるし、代表作の『インディアスの破壊についての簡潔な報告』や『インディアス史』なども日本語で読むことができる。だが、「その足跡をくまなく脚で歩いて検証した形跡はあまり見受けられない」のは確かだ。「ラス・カサスの晩年の言動に対する細心の検証作業はあっても、臨終のベッドが置かれた修道院へ赴くという「手間」は省かれているのではないか…」という著者の指摘はうなずける。

とはいえ、この本でとりわけ驚かされるのは、そこかしこで発揮される著者の旺盛は批評精神だろう。訪れる先々で過去や現在、歴史や政治、さまざまな社会問題や事件が縦横に語られ、独自の批評が加えられる。キューバではチェ・ゲバラとラス・カサスが対比され、パナマではガルシア・マルケスや松尾芭蕉、あるいは海賊ドレークや征服者ピサロが想起される。過剰なまでに繁茂する思考は、ラス・カサスの言説と同様に挑発的である。

2008年9月18日木曜日

スペイン語とカタラン語

■この夏、三年ぶりにバルセロナを訪れたが、カタラン語(カタルニア語)の存在が圧倒的なものになっているのに驚いた。店の看板や道路の標識にいたるまですっかりカタラン語に統一されていた。カタラン語こそカタルニア自治州の言語であるというメッセージがひしひしと伝わってくる。

バスク語など独自の言語を公用語にしている自治州がほかにもある。とはいえ、これまで急進的な言語政策をとってきたのはカタルニア自治州で、近年は学校の授業ももっぱらカタラン語でおこなわれるほどである。

そうした政策に異を唱えるスペイン人はむろん少なくない。バルセロナで暮らすことになった者にとって、子供の教育が悩みの種であるとよく聞く。またスペイン人でありながら、スペイン語をろくすっぽ話せない若い世代が出てきたと嘆く人びともいる。

その傾向がさらにエスカレートし、他の自治州にも広がることを懸念した哲学者のフェルナンド・サバテールは、この夏、「共通語を守るための陳情書」を認(したた)め国会に提出した。そこでは、確かにカタラン語もバスク語もガリシア語も等しくスペインの公用語であるが、スペイン国民唯一の共通語はスペイン語(カスティリア語)であり、スペイン語話者の権利は、スペイン国内のいかなる地域においても侵されてはならないと述べ、そのことを憲法や法律で明確にするように求めている。

この陳情書にはペルーの著名な作家バルガス=リョサも署名している。そして署名を求められたけれど断ったと新聞のコラムで告白したのはスペインの人気作家ローサ・モンテーロ。四億人もの話者がいるスペイン語は少しも危機に瀕していないし、その巨大な存在に呑み込まれないための奮闘はわからぬわけでもない、というのは彼女の言い分。陳情書をめぐる熱い攻防は秋になっても続きそうだ。

2008年7月17日木曜日

アルモドバル

■スペインの映画監督ペドロ・アルモドバルはこのほど本格的なブログを始めた。二週間に一回ぐらいのペースで更新されている。一回ごとの分量はかなりのもので、小見出しがいくつも並び、さまざまなテーマでエッセイ風に書きつづっている。写真も随所に折り込まれ、ビジュアル的にも楽しい。

アルモドバルは、「オール・アバウト・マイ・マザー」「トーク・トゥ・ハー」や「ボルベール(帰郷)」などの作品で多くの世界的な賞に輝き、自ら手がけた脚本でもフランスやアメリカで話題をさらってきた。文章をつづることにかけては、若い頃の小説『パティ・ディプーサ』以来、独特の才能を発揮してきたアルモドバルである。今回のブログでも、その文章の軽快なリズムとみずみずしい感覚は申し分なく健在である。

ところで三月に開始されたブログの冒頭には、次回作の脚本の草稿が昨年の十月にできあがり、目下六回目の手直しにかかっている、とある。そしてメキシコやモロッコへ出かけた折りの、ホテルのテラスとおぼしき場所で、頬杖をついて原稿に手を入れているアルモドバルのスナップ写真が添えられている。

また旅先でさまざまな小物を買い集めるのが趣味、と語ったエッセイでは、だいぶ以前、カリブの島で見つけた、目の形をした風変わりな装身具が、今回の映画で使えるかもしれないとふと思い、それをイヤリングに作りかえて、ペネロペ・クルスにつけてみたら、その魔よけ的な霊力が俄然【がぜん】伝わってきたという。

「ボルベール」に続いてペネロペ・クルスが主演を演じる新作映画で、アルモドバルは彼女のなかに棲むさまざまな女性をまたひとり見つけ出すつもりだと意気込んでいる。最新のブログでは、たしかに大きく変貌を遂げた銀髪のペネロペの写真が写し出されていた。

撮影会開始は間近いようで、このブログはその間もずっと続く見込みだ。ブログはスペイン語のほかに、英語やフランス語のバージョンも同時にアップされている。

2008年4月14日月曜日

楽園への道

■この小説はバルガス=リョサの比較的新しい作品である。七〇歳を越えた今もリョサは、二,三年おきに新作を発表しており、創作意欲には少しも翳りがみられない。『楽園への道』は二〇〇三年にスペインで刊行され、好評を博した。

主人公は十九世紀の前半に、フランスで労働者や女性たちの権利確立のために奮闘した社会運動家フローラ・トリスタンと、その孫にあたる後期印象派の画家ポール・ゴーギャンである。ふたりの生涯は、二十二章に渡って交互に語られ、五百ページ近い作品となっている。

ところでフローラもゴーギャンも、リョサの出身国ペルーと浅からぬ縁がある。フローラは三十代のはじめにこの国を訪れ、代表作『ペルー旅行記――ある女パリアの遍歴』(法政大学出版局)を書いた。一方ゴーギャンは、あまり知られていないことだが、幼年時代の数年間をこのアンデスの国で過ごしているのである。

ペルーから帰国して、やがて「人間に奉仕すること」をめざすようになるフローラだが、リョサはとりわけその生涯の最後の八ヶ月に焦点を当てる(一八四四年のことで、彼女は四十一歳になっている)。冒頭のエピソードでは、朝早く起き出して、セーヌ河畔の船着き場から、靴職人の小さな集会へ向かうフローラの姿が描きだされる。

十数時間かけてたどり着いたまちでは、組合を組織して団結するよう男たちに熱っぽく訴える。むろん女性がそうした主張を説いて回るのを奇異な目で見られていた時代だ。しかし彼女はひるむどころか、教会の司祭とも渡り合う。――「女たちがどんなに両親や夫や子供たちから虐げられ、不当に扱われ、搾取されているか、気づいていないのだろうか」

フローラ・トリスタンは、労働運動やフェミニズムの先駆者として近年再評価の著しい女性である。彼女をそうした社会運動へ駆り立てたものは何だったのか、不遇な少女時代や波乱に満ちた結婚生活とともに描きだされていくのである。

いっぽうゴーギャンについては、タヒチに渡ってから、ヒヴァ・オア島で亡くなるまでの十二年間の物語が主軸となる。ヨーロッパ文明を捨て、南太平洋の熱い島にたどり着くのは一八四一年、四十三歳のときだ。「百ヤードのキャンヴァス布」を携えていた。

タヒチまでやってこなければならなかった理由についてゴーギャンは言う。――「本物の絵を描くには文明化された我々を払い落として、内部にある野蛮人を引き出さねばならない」。それができた最初の傑作は「マナオ・トゥパパウ」(彼女は死者の霊について考えている、もしくは、死者の霊は彼女を思い出している)という作品だ。リョサは巧みなストーリーテリングでそのみごとな絵の達成を実感させてくれる。

『楽園への道』の最終章ではゴーギャンは、もはやほとんど目が見えない状態で、脚が腐乱し、自ら痛み止めのモルヒネを打っている。そして夢うつつのなかで日本に思いを馳せる。――「あの国へ楽園を探しに行くべきだったのだよ」

先にも書いたように、フローラとゴーギャンの物語は交互に語られる。ふたりは祖母と孫の間柄だが、ゴーギャンはフローラの死後に生まれた。当然のことながらふたりは物語のなかでも会うことがない。時代も舞台も登場人物も異なる別々の物語である。

とはいえ、両者のあいだを目に見えない電流のようなものがしきりに飛び交う。フローラもゴーギャンもそれぞれの領分で大胆な企てに挑み、ひたすら見果てぬ夢をめざした。その夢は楽園と言いかえてもよい。一途な情熱の、栄光とその代償の物語である。

2008年3月16日日曜日

Mario Bellatin

「ムラカミ夫人の庭園」や「ナガオカ・シキ――鼻のフィクション」といったタイトルの小説を発表して、スペイン語圏の国々で人気を博している作家がいる。メキシコのマリオ・ベジャティン(1960~ )である。ペルーで育ち、この国で小説を書きはじめたので、ペルーの作家と紹介されることもある。二つの国籍を持っており、現在はメキシコで暮らしている。痩身で、頭は剃髪しており、少々異様な風貌の持ち主である。

同様に、彼の書く小説の外観にしても、登場する人物たちにしても、一風変わっているのである。たとえば「ナガオカ・シキ」の主人公(名前は正岡子規を連想させるが無関係)は、とてつもなく大きな鼻をもって生まれ、若くして仏門に入るが、信仰心の欠如でやがて追放されてしまい、田舎で小さな写真店を営みながら、写真と文学の相関関係についての本を著すと、これがラテンアメリカの作家たちにも大きな影響を与えることになる。谷崎潤一郎と親交があり、芥川龍之介の短編「鼻」のモデルとも目されている、というのである。

小説の巻末には芥川の「鼻」のスペイン語訳が付され、谷崎が撮ったとされる古めかしい写真も、他の多くの昭和か戦前の写真とともに、小説の中ほどに折り込まれている。

「ラテンアメリカという土地柄や、ある特定の時代に縛られたくないんだ。小説というジャンルや、これまでの饒舌なスペイン語の文体からも逃れたいんだ」とベジャティンは言う。その文体はたしかにシンプルで透明感に満ちている。「子供や普通の大人たちに終わりまで読んでもらいたいからね」と述べる。しかし平易な文章でありながら、言葉のひとつひとつが研ぎ澄まされ、すこぶる純度が高いのである。

ベジャティンの作品は、近年さまざまな外国語に訳されはじめている。ときおり読者から「ナガオカ・シキ」という日本の作家についての問い合わせがあるそうだ。しかしすべては、ある会合で好きな作家について話さなければならなかったときに生まれたフィクションなのである。

2007年12月12日水曜日

Pablo Neruda

「ネルーダのアルバム」と題された、チリのノーベル賞詩人パブロ・ネルーダ(一九〇四-一九七三年)のビジュアルな伝記がこのほどスペインで刊行された。約四百枚の写真が掲載され、ネルーダの波乱に富んだ生涯を写真と文章で追うことができる。

興味を引く断章のひとつは、一九二〇年代の終わりから一九三〇年代のはじめにかけてのもので、ネルーダ自身が、この時期のことを「ほんとうの孤独とはどういうものか初めてわかった」と述懐している。当時のネルーダは二十代の後半で、外交官として東南アジアのラングーン(現在のヤンゴン、ビルマ)、コロンボ(スリランカ)、バタビア(現在のジャカルタ、インドネシア)、カルカッタ(インド)などを転々とした。一九二八年の二月には中国や日本を訪れ、厳しい寒さに遭遇した様子を友人宛の手紙につづっている。

ヨーロッパからも遠く離れた異国での孤独な日々は、執筆中だった「地上のすみか」(一九三三年)の内省的な声調に反映されている。この時期に、何人かの女性と出会い、彼女たちに救いを求めるように恋愛し、そのつど不首尾に終わっている。そうした昂揚感と哀しい結末の体験も「地上のすみか」の作品として結実し、ネルーダの最初の詩集「二〇の愛の詩と一つの絶望の歌」とともに、多くの読者の心を今なお捉えつづけている。

今回の「アルバム」に収録された四百枚の写真を追っていくと、ネルーダのその後の変貌も手にとるようにわかる。孤独だった彼のまわりには、やがてにぎやかな声が飛び交い、多くの作家や芸術家、政治家や革命家や女優たちが集まり、ネルーダはさながら鳥たちが群れ集う緑豊かな大樹となっていく。

「大いなる歌」(一九五〇年)を経て「基本的なオード」(一九五四-一九五九年)のころになると、詩人は、玉ねぎだろうとレモンだろうと木片だろうと、目に映るものすべてを詩に歌うことができた。触ったものをすべて黄金に変えたギリシア神話のミダス王になぞらえて、ネルーダが詩のミダス王と呼ばれるようになってすでに久しい。

2007年10月8日月曜日

Frida y Diego

■今年はメキシコの画家フリーダ・カーロ(一九〇七~一九五四)の生誕百年。またその夫君であった壁画家ディエゴ・リベラの没後五十年にもあたる。というわけで、ふたりにちなんださまざまなイベントや展覧会が世界各地で盛大に開催されている。

リベラは亡くなる前に、ふたりが暮らした通称「青い家」の一室に多くの箱を封印し、自分の死後十五年間は開けないようにと友人に託した。友人は十五年どころか五十年近くその遺言を守った。そして三年前についに封印が解かれ、このほどそれらの箱の中身が明らかにされたのだ。

出てきたおびただしい品々のうちで最も多かったのは書類や手紙類だった。写真も五千枚以上見つかり、なかにはフリーダが自ら撮影したものもあった。写真家だった父親の影響や、それらの写真とフリーダの絵画との関係はすでにいろいろ取り沙汰されはじめた。

バス事故の後遺症で幾度も手術をよぎなくされたフリーダだが、背骨を支えるための石膏製のコルセットや、きゃしゃな体を包んだ民族衣裳も多数出てきたので、博物館となった「青い家」の展示コレクションは、今後いちだんと充実することになるだろう。

とはいえ、そうした品々でとりわけ興味を引くのは、やはりベッドに横たわったまま晩年にフリーダが走り書きしたさまざまな文章だ。トロツキーやイサム・ノグチなど、恋人たちに宛てた手紙を含め、フリーダの約三百点の手紙を1冊の本に編んだ研究家ラケル・ティボルによれば、フリーダはときには、同じ家の中にいるリベラにも「手紙」を書き送っていたのだそうだ。

ティボルは若い時分に「青の家」で過ごし、フリーダとリベラの暮らしぶりをわが目で見ている。新しく出てきたそれらの手紙やメモ類が、ティボルによって編まれた「フリーダ・カーロのエクリチュール」の新しい版に加えられる日もそう遠くあるまい。
「北海道新聞」2007-9-25