2007年2月12日月曜日

La tía Julia y el escribidor

■これはラテンアメリカ文学の熱気がまだ冷めやらぬ一九七〇年代の後半に刊行され、バルガス=リョサ自身が私生活さえ赤裸々に盛り込みながら、作家という人種のパロディ、その過剰さと悲哀をこっけいな筆致で描きだしてみせた話題作である。 

当時のリョサは、三十代の半ばまでに『都会と犬ども』『緑の家』『ラ・カテドラルでの対話』(いずれも邦訳がある)といった重厚な大作を発表し、すでに世界的な名声を得ていた。確固たる地位を築いた自信もあろうか、それまでの手法と打ってかわって、軽やかな文章や笑い、娯楽的な要素を駆使して、新しい文学の地平に果敢に挑んでいた。『フリアとシナリオライター』はそのころの大きな成果である。

作品の冒頭近くで、〝僕〟の口さがない伯母のひとりが眉をひそめながらこういう――「フリアったらリマへ来て最初の一週間に、もう四人の男と出かけているのよ。しかも一人は女房持ち。まったく、バツイチ女は手がつけられないわ」。 

じつはくだんのフリアも、僕の叔母のひとりであり、物語はこのあと、隣国ボリビアから出戻ってきた一まわり年上の美貌の彼女と、ラジオ局でアルバイトをする作家志望の十八歳の僕との、いささかどたばた的な恋愛をめぐって展開するのである。 

しかも僕の名前は、バルガス=リョサであり、フリア叔母さんは、実人生でも最初の妻となったフリアその人だというのだから、現実とフィクションが分かちがたいものとして仕組まれており、これも読者を煙に巻くためのリョサ一流の計算だろう。 

ところで、タイトルのシナリオライターは、〝僕〝がラジオ局で知り合うことになるあこがれの〝作家〟だ。さまざまな人物に変装して、ラジオ局の小部屋で一心不乱にタイプライターに向かう風変わりな男だが、現実とフィクションを絶え間なく行き来するそのなりわいの崇高さと猥雑さと危なっかしさは、むろん今ではリョサ自身のものでもある。
「京都新聞」2004-6-27