2009年6月21日日曜日

JULIO CORTAZAR■PAPELES INESPERADOS

■亡くなってから二十五年になるアルゼンチンの作家フリオ・コルタサル。その人気はいまも世界的に根強く続いている。日本では昨年、短編集『愛しのグレンダ』が刊行され、文庫本の『悪魔の涎・追い求める男』も読み継がれている(共に岩波書店)。ユーチューブでは、「追い求める男」のモデルといわれる伝説のアルトサックス奏者チャーリー・パーカーの演奏をバックに、コルタサルの朗読を聞くことができる。長くフランスで暮らしたせいか、そのスペイン語は独特な抑揚で、なめらかに、そして淀みなく続くのである。

そんなコルタサルだが、つい先月(五月)、新たな作品がスペインとアルゼンチンで同時に出版され話題を呼んでいる。コルタサルの最初の妻、アウロラ・ベルナルデスがパリの家の古いタンスの中に見つけた大量の原稿である。引き出し一杯分の原稿が、『予期せぬ原稿』という五百ページほどの分厚い本となった。未発表の短編や詩や随想、あるいは『マヌエルの教科書』や『ルーカスと呼ばれた男』といった長編から省かれた断章、講演や序文の草稿などが並んでいる。その多様なありさまは、コラージュ風の構成を好んだコルタサルの作風を思い起こさせる。コルタサルの愛読者や研究者にとって、まさしく予期せぬプレゼントとなった。

ところで、この本の編纂も手がけたアウロラ・ベルナルデスは、コルタサルの遺言により著作権の単独相続人に指名され、この二十五年間、献身的にその著作の管理と保護にあたってきた。とりわけ数年前に編纂した三巻本の大ぶりな書簡集は多くの人を驚かせた。もともとは翻訳家で、フォークナーやサルトル、イタロ・カルヴィーノなどをスペイン語に翻訳してきた。来年で九十歳になるが、『予期せぬ原稿』の大きなポスターの前に立つ彼女の笑顔は、控えめで初々しい。若い頃のコルタサルとの共訳、エドガー・アラン・ポーの全短編は、名訳として名高い。
「北海道新聞」2009年6月

2009年3月14日土曜日

De Gabo a Mario

■一月末にスペインで『ガボとマリオ』という本が刊行され、話題を呼んでいる。ガボというのは、コロンビア出身のノーベル賞作家ガルシア=マルケスの愛称で、マリオは、ペルーの著名な作家バルガス=リョサのことである。

ラテンアメリカ文学の両雄と称せられるふたりの出会いから決別にいたるまでのさまざまなエピソードがつづられている。

一九七六年二月十二日、腕を広げてにこやかな笑顔で近づいてきたマルケスの顔面に、リョサはいきなり強烈なパンチを食らわせた。マルケスは試写室の絨毯の上にひっくり返った。

これはうわさとして今日まで伝わってきた話で、私も半信半疑でその話を聞いてきたが、昨年になって、メキシコの有力紙のスクープとしてそのときの写真が掲載された。

マルケスは左目のまわりが黒く腫れあがり、鼻のつけ根近くにも傷があった。

しかしながら、マリオがなぜガボを殴りつけたのか、その理由は誰にもわからない。そしてこの本を読んでもわからないのである。ふたりとも固い沈黙を守ってきたからだ。

リョサのその時のマルケスへの怒りはおそらく個人的なものだったろうけれど、キューバ革命やフィデル・カストロの評価をめぐって両者がしだいに疎遠になっていったことは確かだ。

それ以前のふたりは、とりわけ一九六〇年代後半のバルセロナでは、家族ぐるみで行き来し、周辺にはコルタサルやフエンテスやドノソといった作家たちがいた。またカルメン・バルセルスやカルロス・バラルといった名だたる出版人たちもいた。彼らによってやがてラテンアメリカの新しい小説群は世界に押し出されていく。

当時のガボとマリオについて語ることは、そのままラテンアメリカ文学の隆盛期の到来について語ることでもある。
「北海道新聞」2009-03-10

2009年1月25日日曜日

ジュノ・ディアス

■米国で2008年度のピューリッツァー賞(小説部門)に輝いたのは、ドミニカ共和国生まれのジュノ・ディアス。受賞作『オスカー・ワオの短くも凄まじい人生』は、英語の中にときおりスペイン語が混ざる独特の文体で書かれており、エネルギッシュでみずみずしい語り口が作品の魅力のひとつになっている。6歳のときにアメリカに移住したディアスだが、40歳になる現在もスペイン語を流暢に話す。

『オスカー・ワオの短くも凄まじい人生』の主人公は、やはりヒスパニックだが、どこにもいそうなオタク的な若者だ。でっぷりと肥え太り、テレビゲームやファンタジー小説に夢中で、心優しいのだけれど、女の子にはまるでもてない。表面的には、それが彼の最大の悩みである。家でごろごろしていると、姉に叱りとばされる。「髪を切ったらどうなのよ。その眼鏡もなんとかして。運動ぐらいしなさいよ。それからそのポルノ雑誌、捨ててちょうだい。いやらしいんだから。母さんだって目のやり場にこまってるじゃないの。これじゃあ、一生かかったって、女の子ひとりナンパできやしないわよ」

オスカー・ワオの孤独でどこかユーモラスな日常とともに、その母親や祖父たちの過去も描かれる。こちらの舞台は祖国のドミニカ。30年あまり君臨した独裁者トルヒーヨの時代と重なる。その意味では『オスカー・ワオ~』は、ラテンアメリカの作家たちが好んで描いてきた独裁者小説の系譜に連なる作品であるともいえる。現にバルガス・リョサも『山羊の宴』(2000年)で同じくトルヒーヨを主人公に取りあげている。

しかしながら、どうやらジュノ・ディアスにはそうした独裁者小説と一線を画したい思いがあったようだ。ディアスのトルヒーヨはなかなか姿を見せない。しかし確かにオスカー・ワオの不運な人生の根源に存在しているのである。「トルヒーヨという人物が提供する物語は、あまりにも強烈だからね。彼について書くとなると、知らぬ間にその神話化に手を貸すことなるんだ。リョサだってそうなったんだからね」とあるインタビューで答えている。

『オスカー・ワオの短くも凄まじい人生』のスペイン語版は、刊行されたばかりである。英語とスペイン語が交錯する文章は、すべてスペイン語だけになったが、幸いにもすぐれた翻訳で、語り口の鮮烈さはじゅうぶん味わえる。ラテンアメリカの文学にとっても特別な意味を持つ作品になっていくにちがいない。
「朝日新聞」2009-01-10

2008年12月14日日曜日

カルロス・フエンテス

■メキシコの著名な作家であるカルロス・フエンテスは、この十一日、八十歳の誕生日を迎えた。精悍な顔つきはあまり年齢を感じさせず、創作欲もなお旺盛だ。このほど五百ページ余りの大作「意志と富」を上梓した。

八十歳というのは、やはり特別な節目だろう。ニュースになり、世界中でイベントが企画される。メキシコでは、ノーベル賞作家ガルシア=マルケスが馳せ参じ、メキシコ国立自治大学では、研究者たちがフエンテスの文学について論じ合うことになっている。

折しも今年(2008年)は、フエンテスの出世作「大気澄みわたる土地」が世に出てから五十年目にあたる。それを記念して主人公の銅像がメキシコ市の一角に建つことになった。フエンテスの作品群にとっても、今年は特別な年なのである。

ところで、新作「意志と富」は、ある意味では「大気澄みわたる土地」の続編だと言える。なにしろ五十年後のメキシコがそこに描きだされるのだから。

「一九四〇年代の後半には、場末のキャバレーを夜中の二時に出ても、歩いて家に帰ることができた。いまでは、家からすぐ目と鼻の先の角でも、とても歩いていこうなんて思わないよ」とフエンテスは最近のインタビューで述べている。

「意志と富」では、夜の砂浜に転がる若者の頭部が語り手だ。「ぼくはメキシコで今年刎(は)ねられた一千番目の首だ。今週の五十番目、きょうの七番目の首だ」。

麻薬マフィアとの戦いは熾烈をきわめているようだ。今年だけでも死者はすでに四千人を超えた。このまま滅びるか、なんとか生き返るか、いまこの国はその瀬戸際に立っている、とフエンテスは言う。

八十歳の今も午前中は執筆に没頭する。「けっこう勤勉な性分でね。朝の八時から十二時まで机に向かうよ。この商売は、休むと書けなくなるもんでね」
「北海道新聞」2008-12-2

2008年11月24日月曜日

ラス・カサス

■ラス・カサスは16世紀に活躍したスペインのカトリック司祭である。ラテンアメリカの先住民(インディオ)に対する残虐非道なふるまいを激しく非難し、スペイン支配の不当性を訴えつづけた。中南米ではインディオの擁護者として称えられてきた。

この本では著者はそうしたラス・カサスの足跡を追う。生まれ故郷のセビージャや十七歳の時に大西洋を渡って最初に訪れたカリブ海のサント・ドミンゴ、従軍司祭として征服行に加わったキューバ、あるいは平和的な植民改宗事業を企てたクマナ(ベネズエラ)、ひと月だけ訪れたパナマ、たどり着けなかったペルー、司教として赴任したチアパス(メキシコ)などなどだ。

それらの現場に、当時であれ五百年後の今であれ実際に立つことで初めてわかることがいくつもあるようだ。じつはラス・カサスの研究は、日本でも大いに進められてきた。評伝はあるし、代表作の『インディアスの破壊についての簡潔な報告』や『インディアス史』なども日本語で読むことができる。だが、「その足跡をくまなく脚で歩いて検証した形跡はあまり見受けられない」のは確かだ。「ラス・カサスの晩年の言動に対する細心の検証作業はあっても、臨終のベッドが置かれた修道院へ赴くという「手間」は省かれているのではないか…」という著者の指摘はうなずける。

とはいえ、この本でとりわけ驚かされるのは、そこかしこで発揮される著者の旺盛は批評精神だろう。訪れる先々で過去や現在、歴史や政治、さまざまな社会問題や事件が縦横に語られ、独自の批評が加えられる。キューバではチェ・ゲバラとラス・カサスが対比され、パナマではガルシア・マルケスや松尾芭蕉、あるいは海賊ドレークや征服者ピサロが想起される。過剰なまでに繁茂する思考は、ラス・カサスの言説と同様に挑発的である。

2008年9月18日木曜日

スペイン語とカタラン語

■この夏、三年ぶりにバルセロナを訪れたが、カタラン語(カタルニア語)の存在が圧倒的なものになっているのに驚いた。店の看板や道路の標識にいたるまですっかりカタラン語に統一されていた。カタラン語こそカタルニア自治州の言語であるというメッセージがひしひしと伝わってくる。

バスク語など独自の言語を公用語にしている自治州がほかにもある。とはいえ、これまで急進的な言語政策をとってきたのはカタルニア自治州で、近年は学校の授業ももっぱらカタラン語でおこなわれるほどである。

そうした政策に異を唱えるスペイン人はむろん少なくない。バルセロナで暮らすことになった者にとって、子供の教育が悩みの種であるとよく聞く。またスペイン人でありながら、スペイン語をろくすっぽ話せない若い世代が出てきたと嘆く人びともいる。

その傾向がさらにエスカレートし、他の自治州にも広がることを懸念した哲学者のフェルナンド・サバテールは、この夏、「共通語を守るための陳情書」を認(したた)め国会に提出した。そこでは、確かにカタラン語もバスク語もガリシア語も等しくスペインの公用語であるが、スペイン国民唯一の共通語はスペイン語(カスティリア語)であり、スペイン語話者の権利は、スペイン国内のいかなる地域においても侵されてはならないと述べ、そのことを憲法や法律で明確にするように求めている。

この陳情書にはペルーの著名な作家バルガス=リョサも署名している。そして署名を求められたけれど断ったと新聞のコラムで告白したのはスペインの人気作家ローサ・モンテーロ。四億人もの話者がいるスペイン語は少しも危機に瀕していないし、その巨大な存在に呑み込まれないための奮闘はわからぬわけでもない、というのは彼女の言い分。陳情書をめぐる熱い攻防は秋になっても続きそうだ。

2008年7月17日木曜日

アルモドバル

■スペインの映画監督ペドロ・アルモドバルはこのほど本格的なブログを始めた。二週間に一回ぐらいのペースで更新されている。一回ごとの分量はかなりのもので、小見出しがいくつも並び、さまざまなテーマでエッセイ風に書きつづっている。写真も随所に折り込まれ、ビジュアル的にも楽しい。

アルモドバルは、「オール・アバウト・マイ・マザー」「トーク・トゥ・ハー」や「ボルベール(帰郷)」などの作品で多くの世界的な賞に輝き、自ら手がけた脚本でもフランスやアメリカで話題をさらってきた。文章をつづることにかけては、若い頃の小説『パティ・ディプーサ』以来、独特の才能を発揮してきたアルモドバルである。今回のブログでも、その文章の軽快なリズムとみずみずしい感覚は申し分なく健在である。

ところで三月に開始されたブログの冒頭には、次回作の脚本の草稿が昨年の十月にできあがり、目下六回目の手直しにかかっている、とある。そしてメキシコやモロッコへ出かけた折りの、ホテルのテラスとおぼしき場所で、頬杖をついて原稿に手を入れているアルモドバルのスナップ写真が添えられている。

また旅先でさまざまな小物を買い集めるのが趣味、と語ったエッセイでは、だいぶ以前、カリブの島で見つけた、目の形をした風変わりな装身具が、今回の映画で使えるかもしれないとふと思い、それをイヤリングに作りかえて、ペネロペ・クルスにつけてみたら、その魔よけ的な霊力が俄然【がぜん】伝わってきたという。

「ボルベール」に続いてペネロペ・クルスが主演を演じる新作映画で、アルモドバルは彼女のなかに棲むさまざまな女性をまたひとり見つけ出すつもりだと意気込んでいる。最新のブログでは、たしかに大きく変貌を遂げた銀髪のペネロペの写真が写し出されていた。

撮影会開始は間近いようで、このブログはその間もずっと続く見込みだ。ブログはスペイン語のほかに、英語やフランス語のバージョンも同時にアップされている。

2008年4月14日月曜日

楽園への道

■この小説はバルガス=リョサの比較的新しい作品である。七〇歳を越えた今もリョサは、二,三年おきに新作を発表しており、創作意欲には少しも翳りがみられない。『楽園への道』は二〇〇三年にスペインで刊行され、好評を博した。

主人公は十九世紀の前半に、フランスで労働者や女性たちの権利確立のために奮闘した社会運動家フローラ・トリスタンと、その孫にあたる後期印象派の画家ポール・ゴーギャンである。ふたりの生涯は、二十二章に渡って交互に語られ、五百ページ近い作品となっている。

ところでフローラもゴーギャンも、リョサの出身国ペルーと浅からぬ縁がある。フローラは三十代のはじめにこの国を訪れ、代表作『ペルー旅行記――ある女パリアの遍歴』(法政大学出版局)を書いた。一方ゴーギャンは、あまり知られていないことだが、幼年時代の数年間をこのアンデスの国で過ごしているのである。

ペルーから帰国して、やがて「人間に奉仕すること」をめざすようになるフローラだが、リョサはとりわけその生涯の最後の八ヶ月に焦点を当てる(一八四四年のことで、彼女は四十一歳になっている)。冒頭のエピソードでは、朝早く起き出して、セーヌ河畔の船着き場から、靴職人の小さな集会へ向かうフローラの姿が描きだされる。

十数時間かけてたどり着いたまちでは、組合を組織して団結するよう男たちに熱っぽく訴える。むろん女性がそうした主張を説いて回るのを奇異な目で見られていた時代だ。しかし彼女はひるむどころか、教会の司祭とも渡り合う。――「女たちがどんなに両親や夫や子供たちから虐げられ、不当に扱われ、搾取されているか、気づいていないのだろうか」

フローラ・トリスタンは、労働運動やフェミニズムの先駆者として近年再評価の著しい女性である。彼女をそうした社会運動へ駆り立てたものは何だったのか、不遇な少女時代や波乱に満ちた結婚生活とともに描きだされていくのである。

いっぽうゴーギャンについては、タヒチに渡ってから、ヒヴァ・オア島で亡くなるまでの十二年間の物語が主軸となる。ヨーロッパ文明を捨て、南太平洋の熱い島にたどり着くのは一八四一年、四十三歳のときだ。「百ヤードのキャンヴァス布」を携えていた。

タヒチまでやってこなければならなかった理由についてゴーギャンは言う。――「本物の絵を描くには文明化された我々を払い落として、内部にある野蛮人を引き出さねばならない」。それができた最初の傑作は「マナオ・トゥパパウ」(彼女は死者の霊について考えている、もしくは、死者の霊は彼女を思い出している)という作品だ。リョサは巧みなストーリーテリングでそのみごとな絵の達成を実感させてくれる。

『楽園への道』の最終章ではゴーギャンは、もはやほとんど目が見えない状態で、脚が腐乱し、自ら痛み止めのモルヒネを打っている。そして夢うつつのなかで日本に思いを馳せる。――「あの国へ楽園を探しに行くべきだったのだよ」

先にも書いたように、フローラとゴーギャンの物語は交互に語られる。ふたりは祖母と孫の間柄だが、ゴーギャンはフローラの死後に生まれた。当然のことながらふたりは物語のなかでも会うことがない。時代も舞台も登場人物も異なる別々の物語である。

とはいえ、両者のあいだを目に見えない電流のようなものがしきりに飛び交う。フローラもゴーギャンもそれぞれの領分で大胆な企てに挑み、ひたすら見果てぬ夢をめざした。その夢は楽園と言いかえてもよい。一途な情熱の、栄光とその代償の物語である。

2008年3月16日日曜日

Mario Bellatin

「ムラカミ夫人の庭園」や「ナガオカ・シキ――鼻のフィクション」といったタイトルの小説を発表して、スペイン語圏の国々で人気を博している作家がいる。メキシコのマリオ・ベジャティン(1960~ )である。ペルーで育ち、この国で小説を書きはじめたので、ペルーの作家と紹介されることもある。二つの国籍を持っており、現在はメキシコで暮らしている。痩身で、頭は剃髪しており、少々異様な風貌の持ち主である。

同様に、彼の書く小説の外観にしても、登場する人物たちにしても、一風変わっているのである。たとえば「ナガオカ・シキ」の主人公(名前は正岡子規を連想させるが無関係)は、とてつもなく大きな鼻をもって生まれ、若くして仏門に入るが、信仰心の欠如でやがて追放されてしまい、田舎で小さな写真店を営みながら、写真と文学の相関関係についての本を著すと、これがラテンアメリカの作家たちにも大きな影響を与えることになる。谷崎潤一郎と親交があり、芥川龍之介の短編「鼻」のモデルとも目されている、というのである。

小説の巻末には芥川の「鼻」のスペイン語訳が付され、谷崎が撮ったとされる古めかしい写真も、他の多くの昭和か戦前の写真とともに、小説の中ほどに折り込まれている。

「ラテンアメリカという土地柄や、ある特定の時代に縛られたくないんだ。小説というジャンルや、これまでの饒舌なスペイン語の文体からも逃れたいんだ」とベジャティンは言う。その文体はたしかにシンプルで透明感に満ちている。「子供や普通の大人たちに終わりまで読んでもらいたいからね」と述べる。しかし平易な文章でありながら、言葉のひとつひとつが研ぎ澄まされ、すこぶる純度が高いのである。

ベジャティンの作品は、近年さまざまな外国語に訳されはじめている。ときおり読者から「ナガオカ・シキ」という日本の作家についての問い合わせがあるそうだ。しかしすべては、ある会合で好きな作家について話さなければならなかったときに生まれたフィクションなのである。

2007年12月12日水曜日

Pablo Neruda

「ネルーダのアルバム」と題された、チリのノーベル賞詩人パブロ・ネルーダ(一九〇四-一九七三年)のビジュアルな伝記がこのほどスペインで刊行された。約四百枚の写真が掲載され、ネルーダの波乱に富んだ生涯を写真と文章で追うことができる。

興味を引く断章のひとつは、一九二〇年代の終わりから一九三〇年代のはじめにかけてのもので、ネルーダ自身が、この時期のことを「ほんとうの孤独とはどういうものか初めてわかった」と述懐している。当時のネルーダは二十代の後半で、外交官として東南アジアのラングーン(現在のヤンゴン、ビルマ)、コロンボ(スリランカ)、バタビア(現在のジャカルタ、インドネシア)、カルカッタ(インド)などを転々とした。一九二八年の二月には中国や日本を訪れ、厳しい寒さに遭遇した様子を友人宛の手紙につづっている。

ヨーロッパからも遠く離れた異国での孤独な日々は、執筆中だった「地上のすみか」(一九三三年)の内省的な声調に反映されている。この時期に、何人かの女性と出会い、彼女たちに救いを求めるように恋愛し、そのつど不首尾に終わっている。そうした昂揚感と哀しい結末の体験も「地上のすみか」の作品として結実し、ネルーダの最初の詩集「二〇の愛の詩と一つの絶望の歌」とともに、多くの読者の心を今なお捉えつづけている。

今回の「アルバム」に収録された四百枚の写真を追っていくと、ネルーダのその後の変貌も手にとるようにわかる。孤独だった彼のまわりには、やがてにぎやかな声が飛び交い、多くの作家や芸術家、政治家や革命家や女優たちが集まり、ネルーダはさながら鳥たちが群れ集う緑豊かな大樹となっていく。

「大いなる歌」(一九五〇年)を経て「基本的なオード」(一九五四-一九五九年)のころになると、詩人は、玉ねぎだろうとレモンだろうと木片だろうと、目に映るものすべてを詩に歌うことができた。触ったものをすべて黄金に変えたギリシア神話のミダス王になぞらえて、ネルーダが詩のミダス王と呼ばれるようになってすでに久しい。

2007年10月8日月曜日

Frida y Diego

■今年はメキシコの画家フリーダ・カーロ(一九〇七~一九五四)の生誕百年。またその夫君であった壁画家ディエゴ・リベラの没後五十年にもあたる。というわけで、ふたりにちなんださまざまなイベントや展覧会が世界各地で盛大に開催されている。

リベラは亡くなる前に、ふたりが暮らした通称「青い家」の一室に多くの箱を封印し、自分の死後十五年間は開けないようにと友人に託した。友人は十五年どころか五十年近くその遺言を守った。そして三年前についに封印が解かれ、このほどそれらの箱の中身が明らかにされたのだ。

出てきたおびただしい品々のうちで最も多かったのは書類や手紙類だった。写真も五千枚以上見つかり、なかにはフリーダが自ら撮影したものもあった。写真家だった父親の影響や、それらの写真とフリーダの絵画との関係はすでにいろいろ取り沙汰されはじめた。

バス事故の後遺症で幾度も手術をよぎなくされたフリーダだが、背骨を支えるための石膏製のコルセットや、きゃしゃな体を包んだ民族衣裳も多数出てきたので、博物館となった「青い家」の展示コレクションは、今後いちだんと充実することになるだろう。

とはいえ、そうした品々でとりわけ興味を引くのは、やはりベッドに横たわったまま晩年にフリーダが走り書きしたさまざまな文章だ。トロツキーやイサム・ノグチなど、恋人たちに宛てた手紙を含め、フリーダの約三百点の手紙を1冊の本に編んだ研究家ラケル・ティボルによれば、フリーダはときには、同じ家の中にいるリベラにも「手紙」を書き送っていたのだそうだ。

ティボルは若い時分に「青の家」で過ごし、フリーダとリベラの暮らしぶりをわが目で見ている。新しく出てきたそれらの手紙やメモ類が、ティボルによって編まれた「フリーダ・カーロのエクリチュール」の新しい版に加えられる日もそう遠くあるまい。
「北海道新聞」2007-9-25

2007年7月16日月曜日

Mario Vargas Llosa

■五,六年前だったか、ペルーの作家バルガス=リョサは「戯曲をまた書きたいと思いませんか」という問いに、「初恋の相手はお芝居だった。今も題材が頭のなかにいっぱいある」と答えていた。

このほどそのうちのひとつが結実し、バルセロナの出版社から刊行された。ホメロスの『オデュッセイア』を翻案した『オデュッセウスとペネロペ』だ。表紙には白いあごひげをたくわえたリョサとペネロペを演じたスペインの女優アイタナ・サンチェスが見つめあっている。

じつは昨年の夏、メリダ(スペイン南西部の都市)にあるローマ時代の劇場でこの戯曲が上演されたのである。脚本を手がけただけでなくリョサは自ら英雄オデュッセウス(英語ではユリシーズ)を演じてみせたのだ。

トロイ戦争へ出かけ、各地を放浪の末に故郷に帰ってきたオデュッセウスが、苦難の歳月を貞淑な妻ペネロペに語ってきかせる。それがリョサの役どころ。その傍らでアイタナ・サンチェスは、ペネロペや旅の途中でオデュッセウスが遭遇する一つ眼の巨人キクロペス、あるいは魔女キルケや甘美な歌声のセイレンにつぎつぎと変身していくのである。

そうした仕掛けは、リョサの八〇年代の戯曲『タクナのお嬢さん』(1981)や『キャシーと河馬』(1983) にどこか相通じるものがある。ただし舞台の上で演じられるのは、作家が物語を書くことの不思議ではなく、物語を読むことの、あるいは語ることの不思議と喜びである。

ステージから降りてきたリョサは舞台俳優としての自己採点を聞かれて、「下手だったといえば謙遜にすぎるし、冴えていたといえばうぬぼれになるな」と答え、出来映えにはまんざらでもなさそうだった。

今年七一歳になったリョサだが、たいへんに若々しい。美貌のアイタナ・サンチェスとの共演はこれからも続く。次回作『千一夜物語』の完成も間近いという。こんどの役柄は、シェヘラザード姫に物語を語らせるあの非情なペルシアの王様だ。
「北海道新聞」2007-7-10

2007年5月27日日曜日

Haruki Murakami

■このところスペイン語圏で村上春樹の作品があいついで翻訳され、ちょっとしたブームになっている。『ねじまき鳥クロニクル』『スプートニクの恋人』のあと、『ノルウェイの森』で火がつき、『国境の南、太陽の西』『海辺のカフカ』と続いている。代表作の『ねじまき鳥クロニクル』がいち早く翻訳され、日本での発表順とは必ずしも一致しないが、熱烈な愛読者がスペインやアルゼンチンでも誕生し、とにかくつぎの作品を読みたいというような状況になっている。日本では、小説だけでなく、エッセイや、愛読者と交わした厖大なメールのやりとりをまとめた本さえあることを彼らが知れば、日本語を解するわれわれをさぞうらやましく思うにちがいない。

七百ページ近い分厚い一冊の本になった『ねじまき鳥クロニクル』や、ほどよい厚みの『スプートニクの恋人』を読んでみたが、なかなかみごとな訳である。いずれもルルデス・ポルタとジュンイチ・マツウラの共訳で、村上春樹の文章の都会的な軽やかさと叙情性が申し分なくスペイン語に置き換えられている。――「それは彼女にライカ犬を思い出させた。宇宙の闇を音もなく横切っている人工衛星。小さな窓からのぞいている犬の一対の艶やかな黒い瞳。その無辺の宇宙的孤独の中に、犬はいったいなにを見ていたのだろう?」(『スプートニクの恋人』)これはスペイン語で読んでも完璧である。

ところで近年、頭角を現してきたラテンアメリカの一群の新しい作家たちがいる。たとえばペルーのアロンソ・クエトやボリビアのパス・ソルダンなどだ。じつは彼らも村上春樹の信奉者である。アメリカのコーネル大学の教壇に立つパス・ソルダンなどは、「『スプートニクの恋人』や『ノルウェイの森』を読んで、この日本人が確かにたぐい希な作家であることがわかった。ポストモダンなテクストを書きながらも人を感動させることができる。(中略)そして不可視な現実と実在する非現実の境目に食い込むのだ」とコラムで述べている。

ガルシア=マルケスにしてもボルヘスにしても、この世のマジカルな層を描きだして、多くの傑作を生んできた。そうした巨匠たちを乗りこえる手だてを見つけることがラテンアメリカの新しい作家たちの課題となっている。そうしたなかで、東洋の作家がそれを軽やかでしなやかな言葉でやってのけていることに驚嘆しているようだ。
「朝日新聞」2007-4-21

2007年5月20日日曜日

Sergio Pitol

■メキシコの作家セルヒオ・ピトルは、スペイン語圏の最も重要な文学賞であるセルバンテス賞を受賞した。下馬評ではペルーのブライス・エチェニケやウルグアイのマリオ・ベネデッティらの名前もあがっていたが、けっきょく72歳のピトルに決まった。授賞式はスペイン国王臨席のもとにセルバンテスの命日に当たる4月23日におこなわれる。

ピトルは長年、外交官として活躍するかたわら小説や評論を書いてきた。北京、ワルシャワ、モスクワなどに赴任し、大使としてチェコのプラハでも数年暮らしたことがある。作品ではそうした異国でのエピソードや、幼くして両親を失い、祖母の家に引きこもって暮らした日々のことが想起される。

「私の作品では、思い出や評論や小説など、いろんなジャンルが混ざり合うんです」とあるインタビューで述べている。「自分の書く評論はいささか退屈で、暗くなりがちなので、あるときふと、小さな物語を折り込んだり、夢の切れ端を忍ばせたり、身近な人物を登場させたりしてみたんだ」

このスタイルが功を奏し、受賞の理由にそうした「多様なジャンルの巧みな融合」を果たしたことがあげられている。ポストモダンの系譜に連なるような斬新で「開かれた」作品を書いたというわけである。
さらに、赴任した先々の作家たち、たとえばゴンブローヴィッチ、アンジェイェフスキといった東欧の作家たちをつぎつぎにスペイン語圏に翻訳紹介したその功績が称えられた。チェーホフ、コンラッドの作品まで入れると、百冊近い作品の翻訳がある。

外交官として仕事ぶりはどうだったのかと気になるところだが、彼の人気と評価の高まりはいずれにせよ、退官後の『フーガの芸術』(1996)からだろう。小説とも評論とも随筆ともつかぬそのシームレスなスタイルは、意外にも日本のわれわれには親しみやすい。そういえば、仏教的なものが自分にしっくりくるともピトルは述べていた。
「朝日新聞」2006-2-14

2007年5月13日日曜日

Octavio Paz

■ペルーのカトリカ大学の出版局から芭蕉の『奥の細道』のスペイン語訳が送られてきた。

いつものように茶封筒に、麻ひもでくくっただけの簡素な梱包だ。長旅でぼろぼろになった封筒から、大層な本が出てきたりするので、いつも驚かされる。

『奥の細道』は、五十年ほど前に、メキシコの詩人オクタビオ・パスと林屋栄吉氏によって翻訳された。これまでスペイン語に訳された日本文学のなかで最も幸運な作品だろう。パスはのちにノーベル文学賞を受賞することになるが、当時は四十歳代の前半で、まだ世界的には知られていなかった。

スペイン語版『奥の細道』はこの半世紀のあいだに、メキシコやスペインなどいくつか国でも刊行され、そのたびに内容が一段と充実してきた。一九七〇年代のラテンアメリカ文学のブームの時代には、スペインの有力なセイクス・バラル社から刊行され、「松尾芭蕉の詩」のほかに、新しく「俳句の伝統」と題された長文の評論が冒頭に付され、訳書とはいえ、パスの代表作のひとつとして、スペイン語圏の各国で広く愛読されるようになった。

今度のペルー版でも、この充実の路線が継承されたようだ。一九九〇年代に日本で刊行された豪華本にならって、与謝蕪村が写した『奥の細道』とパスが翻訳したテキストが左右のページに相対し、さらに蕪村の手になる色刷りの俳画が随所に折り込まれているのである。

かつてさまざまな国の詩人たちと、西洋で初めて連歌の制作に挑んだパスである。ペルー版『奥の細道』では、期せずして、十七世紀の芭蕉や十八世紀の蕪村と時空を超えたコラボレーションをなしとげたといえるかもしれない。魅力を増したこの訳書は、さらに多くの読者を得ていくにちがいない。
「北海道新聞」2003-10-21

2007年4月30日月曜日

García Márquez

■コロンビアのノーベル賞作家ガルシア=マルケスの代表作『百年の孤独』の新たな版がこのほどスペインの出版社から刊行された。記念特別版なるもので、今年は、マルケスが八〇歳を迎え、『百年の孤独』が世に出てからちょうど四十年という節目の年にあたる。

スペイン王立アカデミーを中心に各国のスペイン語アカデミーが共同で編集を担当し、マルケス自身も校正刷りに目を通し、思い違いを指摘されていたいくつかの箇所に手を入れた。またペルーのバルガス=リョサやメキシコのカルロス・フエンテスといった著名な作家たちの評論やエッセイも収められ、五十五ページにおよぶ詳細な用語集も付された。

これが店頭に並ぶと発売後五日間でたちまち十五万部売れたそうだ。最初の一冊は、三月の末にコロンビアで開催された第四回スペイン語国際会議の席上でマルケスに手渡されたが、このセレモニーのためにマルケスは居住するメキシコから帰国し、スペインの国王夫妻やコロンビア大統領も参列した。

その折りのマルケスのスピーチは断片的にさまざまなメディアで紹介されたが、たまたま私が見たスペインのテレビニュースでは、白いスーツ姿のマルケスは『百年の孤独』をめぐるユーモラスなエピソードを語って会場を湧かせていた。

わりによく知られたエピソードだが、『百年の孤独』をメキシコでようやく書きあげたとき、メルセデス夫人が質屋などで工面してくるお金もとうとう底をつき、原稿の束をアルゼンチンの出版社へ送る郵便代にも事欠いたという話。郵便局で小包を計量したところ、「八十二ペソ」と言われたが、手持ちは五十三ペソしかなかった。思案の末、「原稿をふたつに分け、とりあえず、半分だけブエノスアイレスへ送った」。しかし送ったのは後半の部分だったことにあとになって気がついた…。

その『百年の孤独』はこれまで約四十ヵ国語に翻訳され、四千万部以上売られている。今回のスペイン王立アカデミー版も、三年だけの限定販売だが、百万部を越える日もそう遠くないだろう。
「北海道新聞」2007-4-24

2007年4月6日金曜日

Juana Inés de la Cruz

■近年メキシコの尼僧フアナ・イネス・デラクルスの著作が目につく。なかでも恋愛詩を収録した小ぶりな詩集が人気があるのか、何種類か出まわっている。スペイン語圏だけでなく欧米でも読まれており、このほどスペイン語・英語対訳の『尼僧フアナの愛の詩集』が送られてきた。百ページ足らずの本だが、フアナ・イネスのソネット(十一音節の十四行詩)がゆったりと組まれ、各ページに愛らしいキューピッドの木版画があしらわれている。

年々再評価の高まる尼僧フアナだが、じつは彼女が亡くなってから三世紀になる。メキシコがまだスペインの植民地であった十七世紀後半に、読書と学問に専念できる環境をもとめて、副王の華やかな宮廷で女官として仕えたあと、男尊女卑の結婚を嫌って、十代の終わりに修道女になる道を選んだ才色兼備の女性である。修道女になったあとも、副王夫人の庇護を受け、その求めに応じて作品をつづり、宮廷のサロンで披露した。

それらの作品が織りなすバロック的な愛の比喩の背後にあるのは、宗教的な情熱なのか、宮廷時代の失恋の痛手なのか、はたまた単なる豊かな読書体験なのか、これまでさまざまな説が語られ、興味が尽きない。

いずれにせよ、スペインにまで文名をとどろかせたフアナだが、世俗的な文芸に憂き身をやつしているとして教会から厳しく糾弾されてしまう。それでも反論を試み、司教に宛てた文章のなかで、女性の教育を受ける権利や、その文化的な役割について先駆的な論陣を張るが、ますます四面楚歌に陥り、筆を折らざるを得なくなった。

 『尼僧フアナ・イネス・デラクルスあるいは信仰の罠』と題された分厚い評論のなかでメキシコのノーベル賞詩人パスが皮肉る――黄金世紀の巨匠たちも神父だった。だが彼らが恋愛詩を書いても、教会の誰も文句をいわなかったではないか。
「北海道新聞」2004-6-22

2007年3月25日日曜日

Isabel Allende

■ラテンアメリカの女性作家のなかで圧倒的な人気をほこるチリ出身のイサベル・アジェンデ。その新作『わが魂のイネス』がこのほど(2006年)ラテンアメリカやスペインの出版社からあいついで刊行された。十六世紀にスペインの征服者たちが勇んで新大陸の各地に乗り込んでいった時代に、彼らにまじって活躍した女性イネス・スアレスの話である。これまで歴史の表舞台でとりあげられることなく、ほとんど忘れられてきた存在であるが、アジェンデにいわせると、それは「歴史がたいがい男たちの手で、それも勝者側の白人たちの手で、書かれてきたから」である。イネス・デ・スアレスはスペインから新世界に渡り、屈強な征服者たちと行動を共にし、今のチリで先住民のマプーチェ族と戦い、サンチアゴのまちを建設した。

ところで、アステカ王国を滅ぼした征服者がコルテスであるように、あるいはインカ王国を滅亡させたのがピサロであるように、勇敢なマプーチェ族をねじ伏せ、現在のチリに当たる地域を征服したのはペドロ・デ・バルディビアという猛者である。『わが魂のイネス』はじつは、イネス・スアレスとこのペドロ・デ・バルディビアとの数奇な恋物語でもある。チリ征服の偉業は、ふたりの魂の強力な結び付きによってなしとげられたというのがアジェンデの見方である。イネスの知恵と才覚によりバルディビアは何度も窮地を救われ、ときには彼女自身が短刀を握って兵士たちの先頭に立ち、首長の首をかき切ったこともある。それらのエピソードは史実に基づいており、アジェンデは当時の資料を読みあさったのだという。

イサベル・アジェンデは日本でも『精霊たちの家』『エバ・ルナ』『パウラ』などの作品で知られる。米国カリフォルニアに生活の場を移してからもう二十年近くになる。朝起きると、まずしっかり嵩のあるヒールの靴をはくのだそうだ。「ちょっとおチビさんだものね」。新しい作品はかならず一月八日から書き始める。今回も物語がすらすら口をついて出たという。「わたしの名はイネス・スアレス。チリ王国サンチアゴの住人……」アジェンデには現代のシェヘラザードとの異名がある。
「北海道新聞」2006-11-14

2007年3月18日日曜日

Mario Vargas Llosa

■ペルーの作家マリオ・バルガス=リョサの新しい長編『すぐむこうの楽園』が、このほど(2003年3月)スペインのアルファグアラ社から刊行された。またも五百ページ近くの大作である。後期印象派の画家ポール・ゴーギャンと、その祖母フローラ・トリスタンが主人公だ。ゴーギャンが、南太平洋マルケサス諸島のヒヴァ=オア島で亡くなったのは一九〇三年だから、今年でちょうど百年になる。

リョサが昨年、タヒチへ取材に出かけたことは、ペルーの雑誌の記事で知っていたが、どうやらその折りに、娘のモルガナ・バルガス=リョサが同伴していたようで、彼女の手になる写真集『楽園の写真』も、父親の小説と同時に出版された。

日本では画家ゴーギャンはあまりにも有名だが、祖母のフローラ・トリスタンのことはあまり知られていない。彼女はフランス生まれだが、父親はペルー人で、十九世紀の前半に、父親の故郷を訪れたさいの見聞をまとめた著作もある。その縁で、ペルーの文学史にも登場する。とはいえ、フローラ・トリスタンは、いまでは、むしろ労働者の団結や、女性の地位向上をいち早く訴え、その実現のために先駆的な働きをした女性として、世界的に評価されているのである。

バルガス=リョサの『すぐ向こうの楽園』では、このフローラと孫のゴーギャンの波乱にみちた生涯が二十二章にわたって交互に語られる。フローラは熱情にかられたように「理想」を追い求め、孫のゴーギャンもまた、この地上に「楽園」を求めてタヒチへおもむく。素朴な人びとや手つかずの自然、横溢する生命力をそこに見いだすわけだが、最後の章でリョサは、ほとんど目の見えなくなった悲惨な姿のゴーギャンに、ここは楽園などではなかった、自分は日本に行くべきだったといわせるのである。

表題の『すぐむこうの楽園』は、手が届きそうで永遠に手が届かないユートピアの本質を暗示している。
「北海道新聞」2003-7-29

2007年3月7日水曜日

Julio Cortázar

■日本でも評価の高いアルゼンチンの作家フリオ・コルタサル。短編に定評があり、主要なものは、あらかた日本語で読むことができる。たとえば『悪魔の涎・追い求める男』(岩波文庫)や『すべての火は火』(水声社)。とはいえ、コルタサルは小説のほかに、かなりの数の詩も書いた。それらがこのほど一冊の本にまとめられた。「詩と詩論」と題されたコルタサル全集の第四巻である。スペインの出版社から刊行され、千四百ページを超える分厚い本となった。

マドリードでの出版報告会では、コルタサルの最初の妻で、その最期を看取ったアウロラ・ベルナルデスは、「コルタサルは短編の書き手としてあまりにも有名になったので、十二歳の時から詩を書いていたことを多くの人びとは忘れてしまった」と語っていた。そんな事情もあってか、さまざまな雑誌に散逸していた作品や未発表の作品なども地道に探しだされ、この堂々たる第四巻が編まれたのである。

ほかの者たちが引きあげ/空になったグラスや汚れた灰皿がのこり/君とふたりだけになる/静かな淵のように君がそこにいることが/なんと素敵なことだったか/夜の端に君がいて/そしてなおもそこにいて、時を凌駕する/……」

「パーティーのあとで」と題された作品の一部である。しなやかなリズムやノスタルジックな気分は、パリを舞台に南米の不思議な娼婦ラ・マーガとの日々を描いたコルタサルの名高い長編小説『石蹴り遊び』(集英社)をほうふつとさせる。

コルタサルは一九五〇年代のはじめに、ブエノスアイレスからパリに移り住み、後半生をこの街で暮らした。その折々に密やかで、ナイーブといってよい声で小さな作品をつづった。それはアルゼンチンのさまざまな都市を転々としていた時代からの習わしだった。だからある意味では先のアウロラ・ベルナルデスがいうように、「コルタサルの最良の伝記は、彼の詩の中にある」ともいえるのである。
「北海道新聞」2005.12.27